民事手続法の言葉

関西大学法学部教授
栗田 隆


法律の世界には日常用語とはいくぶん違った意味で使われる言葉、あるいは特異な雰囲気の言葉がいくつかある。民事手続法の世界の言葉を中心に、それについて簡単に説明しておこう。


いろいろな言葉


「主観」対「客観」
「主観」は、人間などの行為者を意味し、「客観」は行為の対象を意味することが多い。例えば、判決の効力の客観的範囲は、判決の効力の及ぶ対象の範囲である。主観的範囲は、効力の及ぶ者の範囲を意味する。また、原告が同一被告に対して複数の請求をまとめて訴える場合に、「訴えの客観的併合」といい、複数の原告が同一被告に対して同一の訴訟手続で審判されるように訴えを提起する場合に、「訴えの主観的併合」という(同一原告が複数の被告に対して訴えを提起する場合、あるいは複数原告が複数被告に対して訴えを提起する場合でもよい)。このような伝統的な用語法に対して、[三木=笠井=垣内=菱田*民訴]ii頁は、この意味で「客観的」「主観的」を用いるのはドイツ法の用語の戦前からの誤訳であるとして、「客体的」「主体的」の語を用いるべきであるとする(同書426頁・491頁も参照)。その外に可能な代替用語としては、「物的」「人的」がある(特に「既判力の人的範囲・物的範囲」。しかし、「訴えの人的併合」の用例はあまり見ない。これも可能であるが、「訴えの主観的併合」の語と並んで「共同訴訟」の語がよく用いられているからであろう)。

他方、客観的証明責任は、個々の訴訟を離れて予め決められている証明責任を意味する。この文脈での「客観的」は、「客観的事実」における「客観的」に比較的近い(しかし、同じではない)。
請求
日常生活(したがって実体法の世界)で、「金銭の支払を請求する」と言えば、それは、債権者が債務者に対して金銭の支払を求めることである。しかし、訴訟法の世界で「請求」と言えば、それは、原告が裁判所に対して一定内容の判決を求めること、あるいは、その根拠となる権利関係を裁判所に主張することである。請求の相手は、被告ではなく裁判所である(ただし、権利関係の主張は、被告に向けられていると説明する立場もある)。

権利は、その作用の仕方に基づいて、請求権、支配権、形成権に分類される。請求権は、ある者(権利者・請求権者)が他の者(義務者)に対して、一定の行為(給付)を要求することができる権利である。訴訟法上の概念である「請求」は、これと異なる。訴訟法の世界では、「請求権」と「請求」とは明確に区別する必要がある。しかし、訴訟関係を図解するときには、原告から被告に向けて矢印を引き、その上に「***請求」と書くことが多い。請求の前述の定義からすれば、不正確な図解であるが、原告が被告との関係で裁判所に対してその請求の内容となっている判決要求と権利主張をしていることの圧縮表現であると理解していただきたい。

もっとも、「請求」の語が「請求権」の意味で用いられることもある。「請求」を「主張された権利」を定義する立場があり、この立場を前提にすると、そこにいう「権利」が請求権である場合に関しては(その場合に限定してであるが)、「請求」は「主張された請求権」である。また、民訴法114条2項は、「相殺のために主張した請求の成立又は不成立の判断は、相殺をもって対抗した額について既判力を有する」と規定しているが、そこにいう「請求」は「請求権」ないし「債権」である(「主張した請求権」と解すると「相殺のために主張した「主張した請求権」」になってしまう)。
「調査」「職権調査事項」
「ご質問に対しては、事実関係を調査の上お答えさせていただきます」といった文脈で使われる「調査」は、「(事実の認識や評価、主張の当否の判断、あるいは意思決定のための)資料を集める」の意味である。民事手続法においても、この意味で「調査」の語が使われることがある。たとえば、次の規定における「調査」がそうである:
しかし、民事訴訟法の世界で使われる「職権調査事項」は、「当事者から申立てや指摘がなくても、裁判所が職権で(つまり、自らすすんで)判断すべき事項」を意味し、「調査」は「判断」の意味である。日常用語における意味から離れているために、時折学生から「証拠調べなどにより資料を収集するという意味ではないのですか」と質問される。このようなわかりにくい(誤解を生じやすい)表現を使わずに、「職権判断事項」と言えばよいものをと思うのであるが、学生諸君に法律の世界における共通語を教える立場にある教師としては、「職権調査事項」の語を放擲して、独自に「職権判断事項」の語を用いるわけにもいかない。辛い。
「申立てにより又は職権で」
当事者その他の訴訟関係者が裁判所あるいは裁判官に対して一定の行動ないし行為(裁判をすることあるいは証拠調べをすること等)を要求することを「申立て」という。民事訴訟では、裁判所あるいは裁判官がある行動を開始する場合に、(α)当事者に申立て(要求)の権利(申立権)が認められていて、その申立てを受けて初めてすることができる場合と、(β)当事者からの申立権がなく、職権ですることができる場合と、(γ)当事者に申立権があり、かつ、職権でもすることができる場合とがある。これら3つの場合を表すために、法律の規定では、次の文言ないし表現形式が用いられる。

規定内容 規定の文言
当事者に申立権があり、かつ職権ではすることができない場合 「、申立てにより、」(例:民訴法260条) ただし、別の規定により、職権ですることが認められている場合もある(民訴法234条と237条。237条がなければ、職権での証拠保全は許されないことになる)。
裁判所が職権ででき、かつ当事者に申立権がない場合 通常は、「職権で」という言葉を使わずに、単に、「裁判所は、・・・することができる」と規定する(例:民訴法151条1項)。

しかし、強調のために、「裁判所は、職権で、・・・することができる」と規定することもある(例:民訴法228条3項)
当事者には申立権が認められていないので、当事者から申立てがあっても裁判所はそれを無視することができる。しかし、申立てを受けて職権で所定の行為をすることは許される。この場合の申立ては、「職権の発動を求める申立て」と呼ばれる。
当事者に申立権があり、かつ職権でもできる場合 「、申立てにより又は職権で、」(例:民訴法157条1項)  

申立権が認められている事項について当事者等から申立てがあったときには、裁判所(あるいは裁判官)はそれに応答しなければならない。無視することは、許されない。申立てに対する応答の仕方には、次の2つがある。

申立権の有無といった画一処理が可能な事項は、条文の文言で明確にしておく方がよい。実際にも、当事者に申立権があるか否かは、おおむね、規定の文言から読み取ることができる。しかし、法解釈により条文の文言から離れた見解が多数説になることは、よく見かける現象である。「裁判所は、・・・することができる」と規定されている場合であっても、解釈により、当事者に申立権があるとされている場合が、少数ながら存在する
上記の区分は、幾分錯雑としており、恣意性を感ずる。当事者に申立権を認める場合には「申立てにより」の語を入れるとのルールを徹底させて、こうした錯雑さを排除すべきであろう。 186条については、「申立てにより」の語がないのであるから、当事者に申立権はないと解するのが本来であるが、裁判所が職権で嘱託をすることあまりなく、通常は当事者からの申立てにより嘱託するのが通例であるとの実情を考慮し、当事者の地位の強化のために、例外的に解釈により申立権が認められたものと理解したい。
申出
当事者の裁判所に対する意思表明行為については、伝統的に、申立てと主張の2つの類型が認められていた。「申出」の語が用いられることは比較的少ないが、「証拠の申出」といった形で用いられてきている。この申出は、これについて裁判所は応答義務を負うから、申立ての一種である。

しかし、現在では、「申出」の語は、以前よりもよく見かけるようになったが、申出に対して裁判所が応答義務を負うのかは明瞭ではない。「申立て」の語ではなく「申出」の語を用いたのは、裁判所の応答義務を否定する趣旨であると言えなくもないが、それでも、裁判所が応答義務を負うか否かは、「申出」の語を含む規定の趣旨を考慮して、個別に判断すべきであろう。
「目的」
この語は、日常用語では、「意図や動機」の意味で使われ、民事訴訟法でもこの意味で使われることもある(ex.「当事者が相手方の使用を妨げる目的で提出の義務がある文書を滅失させ」(民訴法224条2項))。しかし、「本訴の目的である請求」(民訴法146条)の「目的」は、この意味ではない。「対象」の意味である。民事訴訟法に限らず民事法の分野では、「目的」の語がこの意味で使われる例は多い。慣れてしまえばそれまでであるが、慣れるまでは、とまどう。わかりやすくしようとする努力は払われている。例えば、民事再生法41条9号は、平成16年改正前は「別除権の目的の受戻し」と書かれていたが、同改正により「別除権の目的である財産の受戻し」となった。格段にわかりやすくなった(しかし、冗漫になった。「別除権の目的財産の受戻し」の方がよい)。

次の文脈の「目的」はどのように理解したらよいであろうか。
「能力」
「当事者能力」は、「民事訴訟の当事者となりうる一般的な資格ないし地位」を意味する。これは、民法の権利能力に対応するものであり、「能力」の意味(一般的な資格ないし地位)は同じである。ここで、「一般的な」は、「個別的な事情に依存しない」の意味である。「能力」の語は、この意味で使われることが比較的多い(「訴訟能力」の「能力」も同じである)。しかし、「意思能力」は、「自己の行為の結果について現実に適切に判断することができる能力」であり、その存否は個別的事情も考慮して判定される。このような例もあるので、「能力」=「一般的な地位ないし資格」と決め込まないほうがよい。
「併合」
複数のものを一括することを「併合」という。請求の併合は、一つの訴状に複数の請求を記載して、一まとめにして訴えることである(136条)。
「体系」
英語やドイツ語のSystemの翻訳である「体系」は、法学の領域においては、通常、説明すべき事項の配列の仕方を意味する。すなわち、一定の領域における法規範の全体像を読者に提示する際に、どのような事項をどのよう順番で説明するのがよいかが問題となり、説明事項の相互の関連性を考慮しながら一定の考えに基づいて説明事項を取捨選択して配列することになるが、その配列が体系である。これは、一定領域の法の全体像を提示しようとする概説書ないし教科書で特に重要となり、それは目次に凝縮されている。

ドイツにおいて民事訴訟法が制定される前の普通法時代の概説書であるヴェッエル『通常民事訴訟体系・第3版』(1878年)が、体系の構成について次のように述べている。「様々な法源から生じた訴訟規律の間には内在的な関連が存在するということは、訴訟を論じたすべての人により、意識的または無意識的に考えられた。しかし、この関連を証明しそして一つの単純な原理に還元するという、より困難な課題には、少なくとも比較的古い法律家は非常に不完全に取り組んだにすぎなかった。彼らは、素材の配列に際して、それらの比較的容易な概観と習得ということより高度な目的が決して眼中になかったので、たいていの者がそうするように、手続の前提条件と経過を分離し、そしてこれらの二つの主題の下に個々のものを章ごとにまとめる場合に浅薄な顧慮にのみ導かれるのである」(岡徹ほか訳・関大法学論集35巻1号192頁)。

法律も、起草者が熟慮の末に規定の配列を決めており、その配列も一つの体系と言うことができる。個々の法律における規定の配列をどのようにするかについて、特定の決まりがあるわけではないが、民事手続法の領域においては、手続の流れに沿って規定を置くのが通常である。ただ、その手続のメインプレイヤーについては、予め規定を設けておくのがよいので、 他方、
概説書の体系は、執筆者がそれぞれの考えに従って自由に設定することができる。起草者がすでに熟慮の末に体系を設定しているのであれば、それにできるだけ素直に従うのがよいであろうというのが私の考えである。私は、法律の規定の配列に従って説明することを原則としている。

ヴェッエルは、素材の配列に関して「比較的容易な概観と習得」より高度な目的があるとし、それを≪様々な法源から生じた訴訟規律の間の関連を証明し、そして一つの単純な原理に還元すること≫とする。確かに、「様々な訴訟規律を一つの単純な原理に還元すること」すなわち「様々な訴訟規律を一つの単純な原理から演繹的に説明すること」及び「時代の変化にあわせて単純な原理の当否を検証し、検証された原理の視点から様々な訴訟規律の当否をさらに検証すること」は、いつの時代でも重要である。しかし、私のような法学教師にとっては(ないしは、体系だった法典を有する国の法学教師にとっては)「比較的容易な概観と習得」が最も重要であるように思える。
「数個」「数人」
日常用語では、2から9を意味することが多く、通常は5ないし6のあたりであろうと理解される。例えば、[吉岡*2004a]12頁以下が弁護士過疎地(稚内市)に2人の弁護士が必要かについて次のように述べている場合の「数件」がそうである。「紛争である以上対立当事者の双方に弁護士がつける状況にを保障する必要性は理解できるものの、そのようなが年間何件あると想定して考えるかということになるが、経験的には数件と思われる」。

しかし、 民事訴訟の世界では、単に「複数」の意味で使われる(「複数個」、「複数人」の省略形と考えてよい)。136条で「数個の請求」と書かれているが、2つの請求の場合も含まれる。

ちなみに、日本語では、単数・複数の区別は重視されないが、法律実務(特に訴状・判決)では、単数・複数の区別が重視され、複数の被告がいる場合には「被告らは・・・」と記載する。もっとも、民事執行法34条が「異議の事由が数個あるときは、債務者は、同時に、これを主張しなければならない」と規定するように(「これら」ではなく「これ」と記しているように)、法律においては、単数・複数の区別をしないことの方が多い(刑の併科について、破産法265条1項等も同じである)。

複数とすべき(「ら」を付けるべき)か単数とすべきか(「ら」を付けずにおくべき)か迷う場合がある。

緊張関係
失敗をした者に対して「緊張が足りないからだ」と叱責するときの「緊張」は「(重大な結果が生ずる問題を取り扱うのにふさわしい)注意」の意味である。「国際関係が緊張する」は、「(細心の注意をはらって対応しないと)衝突が生ずるおそれが高まる」といった意味である。

民事法の世界では、こうした意味とはやや異なる意味で「緊張関係」が使われる。たとえば、「利益Aの保護要請と利益Bの保護要請との緊張関係の中で、妥当な解決を探ることが必要である」という場合には、対立する利益の保護要請の「引っ張り合い・綱引き」の意味で「緊張関係」の語が用いられているのである。綱引きが始まると綱がピンと張ることにちなんだ比喩的表現である。「緊張関係」に代えて「綱引き」の語を用いるか否かは、執筆者の趣味の問題である(「利益Aの保護要請と利益Bの保護要請との綱引きの中で」は、状況を思い浮かべやすい比喩である)。「引っ張り合い」でも悪くはないが、冗漫さが増す。
「法定」と「任意」
民法の世界と同様に民事訴訟法の世界でも、前者は「当事者の意思に基づかずに」、後者は「当事者の意思に基づき」の意味で使われることが多い。例えば、法定代理人と任意代理人、法定訴訟担当と任意的訴訟担当がそうである。

「任意的当事者変更」における「任意」は、さまざまに説明されている。[梅本*民訴]673頁は、「訴訟係属後に原告がその意思により当初の被告以外の者に訴えの相手方を変え」る場合等を指すと説明している。この説明における「任意」は、「当事者の意思に基づく」という通常の意味である。他方、[中野=松浦=鈴木*2000a]481頁(松浦=井上)では、「直接法律に基づかないで当事者変更が認められる場合」であると説明されている。これは、どのように理解すべきか迷う(「当事者の意思に基づく」の意味なのか、「法律の根拠規定なしに」の意味なのか、それ以外の意味なのか)。

法定と任意の2項対立の用語例をもう少し拾っておこう。
訴えを提起することができるか?
練習問題などで、「訴えを提起することができるか」という幾分曖昧な表現がよく使われる。訴えても処罰されることはない、という意味では、訴えることは常にできる。しかし、質問の意図は、訴えて良い結果が生じうるかということである。よい結果がほぼ確実に生じないのであれば、「訴えを提起することができない」と答えていただきたい。例えば、「原告と被告とが恋人関係にあることの確認を求める訴えを提起することができるか」と質問されたら、「恋人関係は単なる社会的関係であり、法律関係ではないから、そのような訴えを提起しても、不適法な訴えとして却下される。従って、そのような訴えは提起できない」と答える。もちろん、「訴えを提起することができるか」という質問自体は、前記の設例では、「訴えを提起することは許されるか」、あるいは、「訴えを提起した場合に、それは適法か」と言い換える方が正確である。ただ、半ば惰性で、半ば問題の意図を読みとる能力を試す趣旨で、この表現を用いることがある。
「原則として」と「特段の事情のない限り」
ルールは、一定の場合に一定の処理をなすべきことを定める。複雑な社会現象に対応して多数のルールを設ける必要がある場合には、ルール全体を見渡しやすくするために、体系化が行われる。体系化の基本的な手法の一つは、原則を定め、次に例外を定め、さらに例外の例外を定めることである(原則・例外構造による体系化)。例外を定める場合には、例外にあたる要件を定めて、それからどのような例外処理をなすかを定める。例外処理を明示しない場合もある。例えば、第1レベルの原則規定があり、第2レベルに例外規定があり、第3レベルに例外規定の例外規定がある場合に、第3レベルの例外の要件が充足される場合には、第2レベルの例外規定を適用しないというものである場合がそうである。この場合には、第1レベルの原則処理がなされる。例えば、民法200条1項が原則規定であり、同条2項本文が例外規定であり、2項ただし書は例外の例外であり、例外処理の内容は明示されていないが、それは原則規定を適用することである。

ところで、「原則として」という表現は、例外があり得ることを示唆するものであるが、例外の要件も例外処理も明示されていないため、ルールとしては不完全である。そのような不完全なルールも、法律より下位の法規には時折見られる。しかし、民事法の領域においては、少なくとも法律のレベルでは、そのような不完全なルールは見られない。民事法の領域において、「原則として」という表現は、研究者の論説によく見られる。法律よりも細かく場合分けをして議論をするときに、例外となる場合を明示しきれないからである(もちろん、怠慢であるとの非難は甘受しなければならない)。最高裁判例において、法の解釈適用の説示の中でこの表現が使われることは、かつては稀であった。その代わりに、「特段の事情のない限り」という表現が使われていた。現在でも、それが通常と思われるが、それでも平成18年頃になると、「原則として」という表現も時折見かけるようになった(最高裁判所 平成18年1月24日 第3小法廷 判決(平成16年(受)第424号)中の裁判官上田豊三の意見、最高裁判所 平成18年1月24日 第3小法廷 判決(平成17年(受)第541号)など)。

「特段の事情のない限り」は、「原則として」と互換可能な曖昧語のように見えるが、両者に違いがあるのかと問われれば、違いがあると答えるべきであろう。「原則として」は、例外の要件がまったく示されていない。「特段の事情のない限り」は、例外の要件を極めて抽象的ではあるが、曲がりなりにも示している。すなわち、「正当な理由がない限り」とか「やむを得ない事由がない限り」といった別の例外要件の設定も可能な中で、「特段の事情のない限り」という要件設定をしているのであり、「特段の事情」とは具体的に何かを検討しようとする圧力がすぐにかかる(最高裁判例では、「***のような特段の事情のない限り」と述べられることも多い)。

「原則として」が用いられた最高裁判例として、最高裁判所 平成18年7月21日 第2小法廷 判決(平成15年(受)第1231号)がある。これは、外国の国家が日本の裁判権に服する場合を従来より拡大した重要な判例であるが、次の2つの重要な説示において、「特段の事情のない限り」と「原則として」とを用いている。
この文脈における「特段の事情のない限り」と「原則として」との間のニュアンスの違いは、感じとることができる。言葉自体からは、私は、前者よりも後者の方が例外の認められる場合が広いと感じる。しかし、「外国国家が私法的ないし業務管理的な行為をしている場合」と「外国国家が我が国の民事裁判権に服する旨の意思を明確に表明した場合」とで、何れの方が例外処理を認める必要性が高そうかと言えば、前者ではなかろうか。要件規制の言葉と実際の必要性との釣合いがとれているのか、微妙なように思われる。

ともあれ重要なのは、ルール設定において例外を定めるときは、例外条件と例外処理を可能な限り明確にしようと努めることである。
けだし(蓋し)
国語辞典に記載されている通常の意味は、次の2つである。一つは、()かなりの確信をもって推量する意味である。他の言葉であらわせば、「確かに」、「おそらく」、「たぶん」となり、かなり幅がある。これだけの幅をもった別の言葉は、「思うに」であろう。もう一つは、()疑いの気持ちをもって推量したり仮定したりする意味である。他の言葉であらわせば、「もしかしたら」、「ひょっとしたら」である(三省堂『大辞林』)。(a)の意味の例文として、次の文を挙げることができる:「公示催告の申立があるという一事を以て書換を拒むことを得ないのは蓋し当然であつて、これと異る見解に立脚する所論は採り難い」(最判昭和29.2.19民集8-2-525頁。この「蓋し」は、「確かに」あるいは「まったく」で置き換えることができる)。「多分」の意味で使われている例として、次の文を挙げることができる:彼はこのように言うておるが、「その出所を示しておらぬから断言は出来ないが、けだし誤謬であろう。」(穂積陳重『法窓夜話』(岩波文庫、1980年)188頁)。

ところで、法律の世界では、理由を説明する際に、「けだし・・・だからである」という形で使われることが多かった。本来は、「確かに」の意味で使われているのであるが、あまりにも頻繁にこのような文脈で使われたため、意味の転化が生じ、「なぜならば」と同義と感じられるほどになってしまった(もちろん、国語学上は、この場合でも、「確かに」あるいは「思うに」の意味である)。古い判決では、「蓋し」がこの形で頻繁に使われたが、最近は少なくなっている(しかし、まだ使われている)。私は、意味が通りにくいので、使わないようにしている。
受訴裁判所
訴訟が係属している裁判所を意味する。民訴法329条3項が、「最高裁判所又は高等裁判所が受訴裁判所である場合」と言っている場合には、まさにこの意味である。かつては、「第一審の受訴裁判所」という表現があり(明治23年民訴法733条など)、その簡約表現として受訴裁判所と言うこともあったが、現在では、この用語法は誤解を招きやすい。「第一審裁判所」というのが適当である(民執法33条2項1号)。なお、「受訴裁判所」の語は、裁判機関としての裁判所の意味で使われることも多い(民訴法171条206条235条など)。
期間の徒過
一定の期間内にする必要があることをその期間内にしないことを言う。例えば、「控訴期間(285条)を徒過した」は、「控訴期間内に控訴を提起しなかった」ことを意味する。判決が自分に不利なものである場合に、控訴の機会が与えられているにもかかわらず期間内に控訴を提起しなかったことにより、期間を徒に(いたずらに=無駄に)過ごして判決を確定させてしまったという意味が込められている。
攻撃又は防御の方法
民事訴訟法161条などで用いられている「攻撃又は防御の方法」は、丁寧に書けば「攻撃の方法又は防御の方法」である。この攻撃方法と防御方法の語も日常用語からかなり離れた言葉である。最初に「攻撃」ないし「攻撃的申立て」と「防御」ないし「防御的申立て」を説明する必要がある。
この定義によれば、反訴の場合を除外すれば、原告が防御方法を提出したり、被告が攻撃方法を提出することはない。ゼミなどで学生諸君が「被告の攻撃防御方法」ということがあるので、その時は、146条を持ち出して、次のようにと諭す:≪反訴は、「本訴の目的である請求」または「防御の方法」と関連する請求を目的とする場合に限り許されるとなっている。これは、被告が「攻撃の方法」を提出することがないことを前提にしているのだ≫。

ところが、民事訴訟規則にはこの用語法を動揺させる規定がある。規則53条3項である。同項は、「攻撃又は防御の方法を記載した訴状は、準備書面を兼ねるものとする」と規定しているが、これは、原告が訴状に防御方法を記載することがありうることを前提とした規定である(そのように読むことができる)。同項の前身は、旧民訴法(大正15年法)224条2項であり、これは、「準備書面に関する規定は訴状に之を準用す」と規定していた。その基本的趣旨は、準備書面に記載することができる事項は、訴状に記載することができるという点にあると理解されていた。現行法では、この規定は法律で定めるまでもないと判断された。それを受けて、規則53条3項が置かれた。従って、同項は、「訴状には、準備書面に記載する事項を記載することができる。この場合には、訴状は準備書面を兼ねるものとする」という文言でもよかったのである。これであれば、混乱は生じない。
攻撃と防御
先に見たように、攻撃は原告の判決申立てを、防御は被告の判決申立てを意味するというのが伝統的な用語法である。しかし、「当事者が訴訟において攻撃防御を尽くして戦う」という表現は、「当事者が、攻撃方法と防御方法を十分に提出する」という意味であり、そこにいう「攻撃防御」は「各当事者の判決申立て」ではない。「攻撃」を「原告の判決申立て」の意味で用いる用語法が、今となっては古いと言えば古いことになるのかもしれない。

ともあれ、「攻撃」の語が上記のように多義的であるので、講義で、「原告の判決申立てを攻撃といいます」と説明しただけでは不十分である。「原告の判決申立てを攻撃あるいは攻撃的申立てといいます」と説明するようにしている(時間があれば、「攻撃と防御の語は、伝統的にはこの意味で使われますが、「当事者が攻撃防御を尽くして戦う」という表現に見られるように、これとは異なる意味で使われる場合もあります」と説明する)。
「直送をする」か「直送する」か
漢語の名詞をサ行変格活用の動詞として用いるかどうかの問題にすぎないが、自分で文章を書くときには気になる。「直送する」という表現も慣熟しやすい(親しみやすい)表現と思われるが、民事訴訟規則は、名詞形でのみ用い、「直送をする」である(民訴規則24条2項など)。他方、次のものは、サ変動詞として用いられる:「証明する」、「審尋する」。

いくつか気づいたものを挙げると、
「直送をする」より「直送する」の方が、字数が1字少なく簡潔な表現となる。法令はこの表現を用いていないが、「直送する」も許容範囲内であろう。
「できる」
法律案の作成実務(法制執務)では、「処分することができる」(民法5条3項)のように、動作を示す語を主語にし、その後に格助詞の「が」を付してから「できる」と書く。英文法的に言えば、「できる」が本動詞として用いられている。「処分できる」という表現では、「できる」は、助動詞である。「できる」を助動詞として用いることができるのは、現在の日本語では、動作を示す語が漢語の場合に限られる(それも、漢字が2文字以上の場合に限られよう。「愛する」は可であるが、「愛できる」は不可である)。そうした制約はあるが、ともあれ、助動詞として用いる方が簡潔でよい。しかし、法律では、この簡潔な形式は用いないのが慣例になっている。そのような慣例ができた背景は、次のことであろうと推測される。 しかし、口語体にあっては、動作を示す語が漢語の場合には、「できる」を助動詞として用いることは、一般に許容されており、また、その表現は、いくつかの法令(政令・省令を含む)にも見られる(例えば、「事業を自主的かつ自立的に執行できるよう、・・・」(物価統制令附則(平成11年7月16日法律第87号)251条))、「選定できる場合」(土じよう調査作業規程準則(昭和30年1月29日総理府令第3号)13条3項1号)。最近の法令は、一つの文が長い。少しでも短くなるように、「できる」を助動詞として用いればよいのにと思うのであるが、慣例は、簡単には変わらないであろう。

法律学の論文は、法令を扱うが、法令そのものではない。法令を引用する場合以外は、通常の日本語と同様に、「できる」を助動詞として用いることも許容される(「法令は、本動詞としてのみ用いている」との杓子定規を論文にも当てはめようとする立場に対しては、「許容されるべきである」と主張することになる)。
「各号に掲げる」と「各号に定める」
2つ1組の事項(一対の事項)を複数まとめて規定する場合に、それらを各号ごとに分けて規定することが多い。例えば、民訴法5条がそうである。通常の法令集では見やすくするために、一対の事項の一方を上段に、他方を下段に配置している。上段に配置されるのが「各号に掲げる」事項であり、下段に配置されるのが「各号に定める」事項である。一対の事項は、多くの場合、要件と効果の関係にあるので、その場合に即して読み直すと、「『各号に掲げる』要件に該当する場合には、『各号に定める』効果が発生する」となり、わかりやすい。このことを知っていると、民訴法6条3項などを読むときに迷いが少なくなる。

「別表」あるいは「次の表」の上欄・下欄の内容を指す場合には、「上欄に掲げる」・「下欄に掲げる」となる。例えば、民事再生法第241条第3項の額を定める政令2条1項各号、労働基準法39条2項など参照。

もっとも、こうした言葉の使分けが現行法全体を通して常になされているかといえば、そうでもない。例えば、金融商品取引法21条2項柱書は、次のように規定している:「前項の場合において、次の各号に掲げる者は、当該各号に掲げる事項を証明したときは、同項に規定する賠償の責めに任じない。 」(2015年9月4日法律63号による改正後もの)。「掲げる」と「定める」との使い分けをして書けば、次のようになる:「前項の場合において、次の各号に掲げる者は、当該各号に定める事項を証明したときは、同項に規定する賠償の責めに任じない。」。もちろん後者の方が分かりやすく、スマートである。しかし、法令においてこのような言葉の使分けが一貫してなされているわけではないという事を知っておくことも、教師にとっては重要である。

準用の場合  準用条文を多数列挙している条文を見ると、溜息がでる。もう少し見やすく書いてもらわないと、読むのに疲れる。是非とも、「次の各号に掲げる規定は、それぞれ当該各号に定める場合に準用する」あるいは「次の各号に掲げる場合には、それぞれ当該各号に定める規定を準用する」という形式で規定してもらいたいものである。 例えば、民事保全法47条5項は、次のように書かれることになる:
次の各号に掲げる執行については、それぞれ当該各号に定める規定を準用する。
1 仮差押えの登記をする方法による仮差押えの執行 民事執行法第46条第2項 、第47条第1項、第48条第2項、第53条及び第54条
2 強制管理の方法による仮差押えの執行 同法第44条 、第46条第1項、第47条第2項、第6項本文及び第7項、第48条、第53条、第54条、第93条から第93条の3まで、第94条から第104条まで、第106条並びに第107条第1項

読替付の適用(準用)の場合  一般の場合についての規定をその文言の一部について読替を付して特別の場合に適用する場合には、各規定毎に読替え前の文言と読替え後の文言を明示することになるので、3段(3列)構成の表を作ることになる。そのような例として、信託法261条がある。柱書は、「受益者の定めのない信託に関する次の表の上欄に掲げるこの法律の規定の適用については、これらの規定中同表の中欄に掲げる字句は、同表の下欄に掲げる字句とする。」となっており、すべて「掲げる」である。

否定の場合の注意  破産法162条2項柱書は、次のように規定している:「前項第一号の規定の適用については、次に掲げる場合には、債権者は、同号に掲げる行為の当時、同号イ又はロに掲げる場合の区分に応じ、それぞれ当該イ又はロに定める事実(同号イに掲げる場合にあっては、支払不能であったこと及び支払の停止があったこと)を知っていたものと推定する。」。
  1項1号イは、次のような文言である:「イ 当該行為が支払不能になった後にされたものである場合  支払不能であったこと又は支払の停止があったこと。」。
  したがって、「イに定める事実」は、「支払不能であったこと又は支払の停止があったこと」を指す。このままでは、どちらか一方を知っていたと推定することになる。「又は」を「及び」に置き換えた内容をかっこ書で明示したのは、両方とも知っていたと推定することにより、その否定(両方とも知らなかったこと)の証明責任を受益者に負わせるためである。

「同号」(及び「同項」、「同条」)
この語句の前に複数の号が出ている場合にはどれを指すのか迷うが、最後の号を指す。例:民訴132条の6第5項「第180条第1項の規定は第132条の4第1項の処分について、第184条第1項の規定は第132条の4第1項第1号から第3号までの処分について、第213条の規定は同号の処分について準用する。」(「同号」は、「第132条の4第1項第3号」を指す)。213条は、「鑑定人は、受訴裁判所、受命裁判官又は受託裁判官が指定する」と規定しており、この規定が準用されうるのは、第132条の4第1項第3号「専門的な知識経験を有する者にその専門的な知識経験に基づく意見の陳述を嘱託すること」のみである。なお、この場合には、「同号」というよりも、「同項第3号」という方が、わかりやすい。実例を目にしているわけではないが、これも許容範囲と考えたい(自分で書く時にどうするかの問題である)。「同項」、「同条」についても同じことが妥当する。

[読み飛ばしたくなるような細かな話]例えば、平成8年改正前の民事執行法55条8項では、「第1項若しくは第2項の申立て又は同項の規定による決定の執行に要した費用は、その不動産に対する強制競売の手続においては、共益費用とする」と規定されていた。この同項を「第1項若しくは第2項」と理解すると、誤読となる。執行費用の中で共益費用となるのは、2項の規定による決定の執行に要した費用のみである。平成15年改正後の55条9項では、「第1項の申立て又は同項(第1号を除く。)の規定による決定の執行に要した費用(不動産の保管のために要した費用を含む。)は、その不動産に対する強制競売の手続においては、共益費用とする」と規定して、この点の誤解が生じないようにされた(改正前の第1項は、改正後の第1項1号にあたり、改正前の第2項は、改正後の第1項2号にあたる)。もっとも、改正前において、1項の決定の執行の費用も共益費用にあたるかのように記述する文献もあった([浦野*1985a]250頁 )。結論の妥当性からすれば、この解釈も悪くはない。ただ、「同項」が2項のみを指すことを明示した上で、解釈によりそれを修正するとの趣旨を明示すべきであろう。
「第1項ただし書第1号」か「第1項第1号」か
ある項の柱書の中が本文とただし書とにわかれ、ただし書の中で「ただし、次に掲げる場合は、この限りでない」と規定され、これに続いて複数の号が置かれていることがよくある(例えば、民訴法146条1項)。この場合に、各号を指示するときに、例えば「第1項ただし書第1号」と書くべきなのか、「第1項第1号」と書いてもよいのかが気になる。法律の条文では、後者を用いるものと(例えば、民訴法146条2項)、前者を用いるもの(例えば、特許法126条7項、検疫法4条など)とがある(総務省の「法令データ提供システム」で、「ただし書第一号」をキーワードにして検索してみるとよい)。理屈の上では「第1項ただし書第1号」であろうが、「第1項第1号」の方が簡潔である。
「その」
指示代名詞が何を指すかを知ることは、法律の領域に限らず、文章を理解する上で重要である。指示される語の候補が複数ある場合には、どれを指すのだろうかと悩む。例えば、民事訴訟法29条は、次のように規定している:「法人でない社団又は財団で代表者又は管理人の定めがあるものは、その名において訴え、又は訴えられることができる」。この文中の「その」は、「社団又は財団」を指すのか、「代表者又は管理人」を指すのか。教授に昇任して、民事訴訟法の授業を担当するようになってから間もない頃に、規定の趣旨を説明して、学年末試験に次の問題を出したことがある。
「Xはある大学のボートクラブであり、部員はキャプテンのA(3回生)ほか30名である(教員の部長や監督はいない)。Xの部員は、先輩たちが資金を出して購入したボートを受け継いで、練習に使用している。そのボートがYによって盗まれたので、取り戻したい。Xの部員は、誰の名で返還請求の訴えを提起することができるか。」
3分の1ほどの学生が、29条の規定の趣旨を簡単に説明した後で、「キャプテンAを代表者にして、Aの名で訴えを提起すればよい」と答えてきた。「その名において訴える」とは「原告になる」という意味であるから、「その名」を「Aの名で訴える」というのでは意味をなさないことくらいわかりそうなものにとぼやきつつも、指示代名詞が何を指すかを明確に説明していなかったことを反省し、採点をどうしようかと悩んでしまった。このときは部分点を多めに出すことで対処したが、後味の悪さが残った。それからは、この思い出話も交えながら、「その」が「社団又は財団」を指すことをくどく説明している。

民事訴訟法29条からは、指示代名詞「その」は、主語とその他の語が候補である場合には、主語を指すとの経験則を引き出すことができる。これをどの程度一般化してよいのかは、よくわからない。
前段・後段、第1文・第2文
あるものを前半部分と後半部分とに分けることができる場合に、前半部分を前段、後半部分を後段と言う。ここに言う「あるもの」が一つの項であり、その中に複数の文がある場合には、前段は、最初の文を指す。あるものが3つの部分に分かれる場合には、前段・中段・後段の語を用いる。4つ以上に分かれる場合には、第1段・第2段・・と言うことになるが、その実例はあまり見ない。

第1文・第2文は、ドイツ法で用いられる表現であり、合理的な表現であるので、私はよく用いる、しかし、日本の実定法では用いられていない。この表現を用いると、学生諸君には怪訝な顔をされる。しかし、この表現を用いるのは、私一人ではない。内田貴教授も用いている([内田*民法3v3]107頁など )。

最近は条文が無闇に長くなっている。一つの項に複数の文があり、一つの文を複数の部分に分けて指示することが必要な場合もある。例えば、民訴法263条は、2つの文からなっており、最初の文は、次のようになっている:「当事者双方が、口頭弁論若しくは弁論準備手続の期日に出頭せず、又は弁論若しくは弁論準備手続における申述をしないで退廷若しくは退席をした場合において、1月以内に期日指定の申立てをしないときは、訴えの取下げがあったものとみなす」。この規定の要件部分が「又は」で結ばれた二つの部分からなっているので、最初の部分を前段、後半部分を後段と言うことが必要となりうる。その場合には、「第263条第1文前段」と言うことになる。このような指示が必要となることを想定して、第1文・第2文という表現をあえて用いるのである。「第1文」という指示表現を用いない場合には、「第263条前段中の前段」という表現になろうか。

このように、「第1文、第2文」という表現は、合理的なものであるが、法律がこの表現が用いていない現状では、これだけですませるわけにはいかない。必要に応じて、「第1文」等の同義語として「前段」等の語も用いている。
広義と狭義
ある言葉「A」によって示されるものの範囲(外延)を拡張してその言葉を用いるときに、「広い意味でのA」あるいは「広義のA」と言う。逆に外延を縮小して用いるときに、「狭い意味でのA」あるいは「狭義のA」と言う。ここでは、「本来の意味でのA」が想定されていて、外延の広い順に並べると「広義のA」、「本来の意味でのA」、「狭義のA」となる。しかし、外延の範囲が2種類であり、いずれが本来の意味あるかが明確でない場合もあり、その場合には、単純に「広義のA」「狭義のA」と言う。外延の範囲が3又は4の場合には、「最広義」・「広義」・「狭義」・「最狭義」の語を適当に選択して用いる。それより多い場合には、「第1の意味」、「第2の意味」・・・という形で識別名称を付けることになるが、実際にその必要が生ずることはあまりない。

例えば、口頭弁論の語は、
上記の説明における「広義」は、その外延が「狭義」の外延を含んだ意味で使われているが、「広義」の外延から「狭義」の外延を除いた意味で使用される場合もあり、注意が必要である。例えば、執行力は判決等の格式文書(債務名義)に認められる効力であるが、これについて次のように説明する場合がそうである。
「広義」の通常の用例に従えば、「広義の執行力」は、「債務名義に表示された権利関係に合致した状態を強制執行又はそれ以外の方法により実現することができる効力」と定義すべきことになり、またそうした意味で使用する立場もないわけではない。しかし、「広義の執行力」は、通常は前記のように、「狭義の執行力」を除外した意味で使用される。

「狭義」に代えて「純」を接頭語に用いることもある。例えば、民事執行法195条による競売は、次のような区分名称が比較的よく用いられる。
その全員又はそのうちの数人若しくは一人
破産法104条1項に出てくる表現である。精確ではあるが、幾分冗漫さを感ずる。私は、「その全員又は一部の者」と書き直すことがある。数学の集合論の世界では、「一部」は全部の場合を含むことになっているので、上記の表現は、「その一部の者」と書き直しても差し支えないはずであるが、さすがにそこまで簡約にする勇気は持ち合わせていない。

ともあれ、上記の表現は、「数人」の語が「全員」を除外した意味で用いることが暗黙の前提になっている(「一人」と「数人」の区別は、単数と複数の区別を意味するにすぎない)。ここから得られる経験則は、次のようになろう:法律の世界では、表現が冗漫になることをいとわずに、言葉をできるだけ限定した意味で用いる傾向がある。それは、誤解が生ずることを回避する上で有用である。

ただ、常にこの経験則が成り立つかと言えば、そうでもなかろう。若干文脈が異なることになるが、例えば、破産債権の調査に関して、破産法117条・118条は、117条1項各号に掲げる事項が調査対象になるとしているが、その中には「破産債権の存在」そのものはない。「破産債権の存在」は「破産債権の額」(1号)の問題に吸収されていると読むべきことになる。すなわち、≪破産債権の存在そのものが調査の対象になることは当然のことであり、1号の「破産債権の額」は、債権の存在を前提にして、その額を問題にしているのであり、その金額がゼロになる場合は含まれない≫、と読む余地もないわけではないが、むしろ、≪破産債権の不存在は「破産債権の額」がゼロの場合として表現されるから、117条1項では「破産債権の存在」が独立の調査項目として挙げられていない≫と読む方が素直であろう。
「住所」と「主たる事務所・営業所」
実体法の領域では、「法人の住所」という表現が用いられるが(民法旧50条、一般法人法4条、会社法4条)、民事訴訟法では、「住所」の語は、もっぱら自然人について用い、会社等の団体については、「主たる事務所または営業所」と言う(民訴4条参照)。このため、訴状の必要的記載事項としての当事者(133条2項1号)について、次のように説明することになる。
これは、冗漫である。実体法の規定によれれば、「住所」の語は自然人についても法人等の団体ついても用いることができるのであるから、次の説明も許容範囲内であろう。
さらに縮めるとなると、「名称」の語をは自然人の氏名を含むことを前提にして、次のように説明することになる。これを許容範囲内と見るかどうかは、微妙である。
「・・・であるときは、その旨」
民事手続は、基本的に書類を用いて進行され、当事者あるいは裁判所は、手続を進行させるために、さまざな書類を作成する。その書類に何を書くべきかが法律で定められ、その中には、記載されるべき事項が存在する場合にのみ記載すれば足りる事項も多い。例えば、破産債権の届出にあたっては、「各破産債権の額及び原因」を常に記載しなければならない。しかし、優先債権であることは、優先債権に該当する場合にのみ記載すれば足り、優先債権でない場合に、その旨を記載する必要はない。このことを破産法111条1項2号は、「優先債権であるときは、その旨」を記載事項と定めることにより明示している。

しかし、該当する場合にだけ記載すれば足りることが明示されていなくても、その趣旨に解すべき規定もある。例えば、民事訴訟法133条2項は訴状の必要的記載事項を定めているが、1号で「当事者及び法定代理人」が記載事項としてあげられている。当事者は常に記載しなければならないが、法定代理人は、それが存在する場合にだけ記載すれば足りる。これは、明治23年法が採用した簡潔な表現の伝統を現行民訴法が受け継いだ点と見ることができる。

民事訴訟規則67条は、口頭弁論調書の実質的記載事項を規定しているが、その1項4号は「証人、当事者本人及び鑑定人の宣誓の有無並びに証人及び鑑定人に宣誓をさせなかった理由」を挙げている。これが「証人、当事者本人及び鑑定人の宣誓の有無並びに証人及び鑑定人に宣誓をさせなかったときは、その理由」の趣旨であることは言うまでもない。民事訴訟規則が民事訴訟法と同様に言葉を切り詰める方針の下に書かれているかと言えば、そうでもない。規則66条は、口頭弁論調書の形式的記載事項を規定しているが、1項6号は「弁論を公開したこと又は公開しなかったときはその旨及びその理由」となっている。言葉を切り詰めて表現すれば、「弁論を公開したこと又は公開しなかったこと及びその理由」となろう(ただし、この表現だと「その理由」が「公開しなかったこと」にのみ係ることが不明瞭になるという欠点がある)。

ともあれ、規定で記載事項としてされている事柄でも、該当しなければ記載しなくもよいことは自明のことである、と考えられているのである。
・・・の規定にかかわらず
私が学生時代に勉強した民事法の領域の法律には見られなかった表現であるが、最近は、よく見かけるようになった。同一または近接する事項について、二つの規定が異なる内容の定めをしている場合には、一方が原則規定であり、他方がその特則ないし例外規定であるのが通常である。その原則・例外関係を明示するために、例外規定において、「(原則となる)規定にかかわらず」と書くのである。例えば、
上記の例は、比較的わかりやすいが、次はどうであろうか。
219条の書証の申出は限定列挙であることを前提にして、「それにもかかわらず」という趣旨なのであろうが、これなどは、219条で文書送付嘱託の申立てもあげておく方がわかりやすい(この場合には、226条ただし書の内容は、219条に2項を設けて、そこに規定することになろう)。ついでに言えば、文書提出命令の申立てと文書送付嘱託の申立てが文書を入手するための申立てであり、文書の取調べとの関係では準備的な申立てであることも、明示するほうがよい。

もっとも、「・・・の規定にかかわらず」の文言が必要と思われる場合でも、常に挿入されているとは限らない。例えば、民訴法87条1項は、訴えに対して裁判所が判決で応答する場合に、口頭弁論を実施すべきであるとの原則を定めている。140条は、その例外であり、訴えが不適法でその不備を補正することができないときは、口頭弁論を経ることなく判決で訴えを却下することができると定めている。当然、「87条1項本文の規定にかかわらず」の文言があってよいと思われるが、その文言は置かれていない。

最近の法律は、同じことが複数の条文で重複して規定されることを避けようとする。そのために、条文がかえってわかりにくくなることがある。「・・・の規定にかかわらず」という文言は、そのわかりにくい条文の読解の手がかりを与えてくれることがある。

[読み飛ばしたくなるような細かな話] 例えば、破産法133条(破産手続終了の場合における破産債権の確定手続の取扱い)は、第3項で次のように規定している:「破産手続が終了した際現に係属する破産債権査定異議の訴えに係る訴訟手続又は第127条第1項若しくは第129条第2項の規定による受継があった訴訟手続であって、破産管財人が当事者であるものは、破産手続終結の決定により破産手続が終了したときは、第44条第4項の規定にかかわらず、中断しないものとする」。133条3項と5項と対比すると、3項では「破産手続開始の決定の取消し又は破産手続廃止の決定の確定により破産手続が終了したとき」について述べられていないことが目に付く。これは、44条第4項ですでに破産手続の終了による中断が規定されているからである。そして、「破産手続終結の決定により破産手続が終了したとき」について、133条3項の文言(中断しないものとする)と133条5項の文言(引き続き係属するものとする)との差異が目に付く。133条3項で規定されている場合については、44条4項で中断が規定されているからであり、その133条3項がその44条4項の例外であることを示す趣旨で、「・・の規定にかかわらず」と言っているのである。
手続開始決定
民事手続が私人からの申立てを受けて裁判所の決定により開始される場合に、その決定を「手続開始の決定」と言う。例えば、「破産手続開始の決定」(破産法30条)、「再生手続開始の決定」(民事再生法33条)、「更生手続開始の決定」(会社更生法41条)。このような場合には「手続」の語を入れるのが本来であるが、それが省かれている場合もある。例えば、「特別清算開始の命令」(会社法890条1項。特別清算も一つの手続である(会社法第7編第3章第3節の見出し参照))、「強制競売開始の決定」(民事執行法45条1項・46条1項)。

このように、法律において「手続」の語が入っている場合と入っていない場合とがあるので、「競売手続開始決定」あるいは「破産開始決定」と言い間違えないように注意しなければならない。しかし、授業で話す段になると、言い間違いが生じているであろう(話した内容を頭の中で反芻して点検するように努めてはいるが、点検不十分のため、言い間違いをよくしている)。

もっとも、現行法の「破産手続開始の決定」は、旧法では、「破産決定」という簡潔な表現ですんでいたことを思うと、長い表現である。少しでも簡潔にしようとして「の」を省くと、「破産手続開始決定」となり、漢字が並びすぎる。いつの日か、最高裁判所の判決等で「破産手続開始の決定(以下「破産決定」という。)」「破産手続開始の原因」(以下「破産原因」という。)」「破産手続開始の申立て」(以下「破産申立て」という。)」と記されることを望みたい。今は、一度「破産手続開始決定」と書いた後、同一の段落あるいは節の中では「開始決定」と記す方法で表現の圧縮に努めている。
「抗告によらなければ不服を申し立てることができない裁判」
これは、民事執行法22条3号の表現である。同号については、通常は、次のように説明している。
強制執行は、債権者の債務者に対する権利の強制的実現のために行われるものであるが、債務者の生活領域への侵害行為の側面を有するので、強制執行によって実現されるべき権利の存在と内容を明らかにした格式のある一定の文書により(=一定の文書がある場合にのみ)行われる。その文書は、「債務名義」と呼ばれ、民事執行法22条で列挙されている。債務名義は、強力な効力の認められている文書であるので、確実な資料に基づいてあるいは慎重な手続により作成されなければならない。判決は、必ず口頭弁論を開いて、そこで得られた資料に基づいて下される裁判であり、上訴の道も開かれているので、確定した給付判決が債務名義とされている(同条1号)。決定は、必要的口頭弁論を経ることを要しないので、手続の慎重さは十分ではない。したがって、その全部を債務名義とするわけにはいかない。しかし、抗告審による再審理の機会を与えられている裁判は、慎重な手続により下される裁判であるということができるので、債務名義とされている。例えば、民執法83条の引渡命令がそうである。

上記の説明からすると、「抗告によらなければ不服を申し立てることができない裁判」よりは、「抗告により不服を申し立てることのできる裁判」の方が、格段にわかりやすい。後者だと、そもそも不服申立ての許されない裁判は、債務名義となり得ないことは一目瞭然である。前者であると、それが明瞭であるとはいえない。

第一審が給付を命ずる裁判の申立てを棄却し、抗告審が第一審決定を取り消して給付を命ずる裁判をした場合に、この裁判も3号の規定により債務名義となるが、しかし、抗告審が高等裁判所の場合には、許可抗告の道はあるが、一般的に許されているとは言えない。この場合も考慮すると「抗告により不服を申し立てることのできる裁判」は適当ではないと考えられたのであろうか。しかし、その点は、「抗告によらなければ不服を申し立てることができない裁判」も似たようなものであろう。もし正確を期したいのであれば、「抗告により不服を申し立てることのできる裁判」の後に「(抗告審の裁判を含む)」あるいは「及び抗告審の裁判」を追加すれば足りよう(「抗告審の裁判」というだけでは不十分であると言うのであれば、「その裁判を求める申立てについての裁判に対する抗告審の裁判」としてもよい)。
「みなす」
明治維新前において、仏教の教えにより陸上の動物の肉を食べることが禁じられていた時代に、ウサギは鳥であって動物ではないからその肉は食べてもよいとされ、そこから、ウサギは、一羽二羽と数えられるようになったそうだ。このように、あるもの(A)が本来はBに該当しないのにBに該当するとして扱う場合に、「AをBとみなす」という。その点を強調して、「AをBと擬制する」と言うこともある。これが、「みなす」の基本的な意味である。「みなす」がこの意味で使用されている例を民法等からひろうと、次のものがある。
しかし、「みなす」の語は、この意味でのみ使われるわけではない。
AがBとみなされることは、Bに適用される規定がAにも適用されることを意味する。たとえば、無記名債権は動産とみなされので、民法192条や民事執行法122条1項・169条の動産にもあたり、これらの規定の適用を受ける。しかし、全ての法領域を通じて「AがBとみなされる」というわけではない。例えば、婚姻により成年とみなされた者は、私法の領域においては成年に関する規定が適用され、未成年に関する規定は適用されないが、未成年者飲酒禁止法との関係では、依然として「満20年ニ至ラサル者」であり、同法に言う「未成年者」である。公職選挙法との関係でも事情は同じであるが、同法では、「成年者」あるいは「未成年者」の語が規定の本体の中で使われていないので、疑問が生ずる余地は少ないであろう(例えば、公職選挙法137条の2の見出しは「未成年者の選挙運動の禁止」であるが、第1項では「年齢満20年未満の者は、選挙運動をすることができない」と規定されており、年齢満20年未満の者は、成年擬制を受ける者であっても選挙運動をすることができないことを規定の文言から読みとることができる)。

「AをBとみなす」との規定がおかれると、少なくとも同一法令においては、Bに関する規定が「BとみなされるA」にも適用されるのが原則である。しかし、そのことを個別に明示するか否かについては、2つのスタイルがある。
  1. 民法のように比較的古い法律にあっては、個別に明示されていなくても、みなし規定の効果として、Bに関する規定が「BとみなされるA」に適用されると考えられている(もちろん、解釈によって個々の規定の適用が排除されることはありうる)。
  2. しかし、最近の法律は、Bに関する規定が「BとみなされるA」に適用されることを、Bに関する規定の中で、「B(**条によりBとみなされるAを含む)」と規定する等の方法により、個別に明示する傾向にある。例えば、破産法252条1項7号がそうである。同号は、免責不許可事由の一つを次のように定めている:「虚偽の債権者名簿(第248条第5項の規定により債権者名簿とみなされる債権者一覧表を含む。次条第1項第6号において同じ。)を提出したこと」。債権者名簿に関する規定は、破産法第248条第5項・252条1項7号・253条1項6号だけであるので、結局、債権者名簿に関する全ての規定との関係でみなし規定が作用することになる。

bの立法スタイルは、誤解が生じないように用意周到であるという点では評価できる。しかし、このスタイルは、AがBとみなされる場合であっても、Bに関する規定の全部がAに適用されるわけではないことを前提にしていることになり、Bに関する規定のうちでAに適用されない規定があるかどうかを確認することが必要となる(現在では、コンピュータで簡単に検索できるので、それほど負担ではないが、コンピュータを利用できない時代にあってはこの検索は相当な負担であったであろう)。むしろ、「AをBとみなす」とした以上は、Bに関する規定が「BとみなされるA」にも適用されることが原則であり、その適用が排除される場合にのみかっこ書で明示するという規定の仕方の方が簡潔でわかりやすい。ただ、他の法律におけるみなし規定が作用することを明確にするためには、bのスタイルが単純明快であり(例えば、破産法5条3項)、これと歩調を合わせようとすると、同一の法律におけるみなし規定の作用範囲もbのスタイルで規定することになろう。

「みなす」に比較的近い表現をみてみよう。
なお、民事執行法においては、民訴法37条に相当する規定は置かれていないが、168条3項にいう「代理人」には法定代理人も含まれ、民執法20条により民訴法37条が準用される結果、同項にいう代理人には法人等の代表者も含まれると解釈すべきである。そうであれば、「法定代理人」の語が出てくる規定においては、法定代理人に言及した後で、代表者について言及する必要はない。しかし、法定代理人の語が出てくる数少ない規定である197条3項と198条2項2号では、法人の代表者について言及がある。ところが、「法人でない社団又は財団でその名において訴えられることができるものの代表者」への言及がない。この点を厳格に読めば、民執法197条3項・198条2項2号は、同法20条にいう特別の規定として民訴法37条の準用を排除することになり、その結果、民執法197条3項は「法人でない社団又は財団でその名において訴えられることができるものの代表者」に適用も準用もない、と読まれることになる(これも一つの解釈の仕方である。しかし、条文の解釈は、これだけでは決まらない)。他方、破産法39条は、破産者の居住制限及び引致に関する「前二条の規定は、破産者の法定代理人及び支配人並びに破産者の理事、取締役、執行役及びこれらに準ずる者について準用する」と規定している。法人等の代表者への言及がない。破産法39条が同法13条による民訴法37条の準用を前提にした規定であることは明瞭である。
申立てを排斥する裁判(「却下」と「棄却」)
原告の申立てを認めない裁判は、その理由に従い、次のように区分される。
上記の区分は、主として判決をもって応答されるべき訴えを念頭においた区分である。そして、訴えは一定内容の判決を求める申立てであり、その判決申立てを却下する場合には「訴えを却下する」といい、棄却する場合には「請求を棄却する」と言うのが慣例である(それぞれを丁寧に言えば、「訴えを不適法として却下する」(破産法126条7項が好例である)、「請求を理由のないものとして棄却する」になる)。

決定をもって応答されるべき申立てについては、却下と棄却との区別立てをしないこともあり、判決手続においては、両者とも「申立てを却下する」と表現することが多い。信託法も同様である(平成23年法律53号による改正後の165条2項の中の次の文言がこのことを明瞭に示している:「不適法又は理由がないことが明らかであるとして申立てを却下する裁判」)。

さらに、棄却に代えて別の表現をすることもある。例えば、
以上のあたりは、単なる言葉使いの約束事であり、若干ややこしい面はあるが、飲み込めばすむことである。しかし、この言葉遣いの約束を前提にして民事再生法25条を読むと、とたんに混乱が生ずる。同条は、次のように規定している。
「次の各号のいずれかに該当する場合には、裁判所は、再生手続開始の申立てを棄却しなければならない。
 一 再生手続の費用の予納がないとき。
 二 裁判所に破産手続又は特別清算手続が係属し、その手続によることが債権者の一般の利益に適合するとき。
 三 再生計画案の作成若しくは可決の見込み又は再生計画の認可の見込みがないことが明らかであるとき。
 四 不当な目的で再生手続開始の申立てがされたとき、その他申立てが誠実にされたものでないとき。」

手続費用の予納など、手続的要件の代表例ではないか。それなのに、それが充足されないときに「棄却」とはどういうことか。さらに、費用の予納を手続的要件と考えて、この場合には「棄却」ではなく「却下」の裁判がなされるべきであるとすると、同法38条2項との関係で解釈問題が生じてしまう。すなわち、同項は「第26条から第30条までの規定は、再生手続開始の申立てを棄却する決定に対して前項の即時抗告があった場合について準用する」と規定しているが、これは手続費用の予納がないことを理由に申立てを却下する決定には適用がないと解釈するべきなのか。しかし、その結論の正当化する実質的根拠はあるのか。民事再生法は、費用の予納は手続的要件ではなく、実質的要件であることを前提にしているのだろうか。。。。

上記のさまざまな疑問は、民事再生法が「棄却」の語を、実質的要件が欠けることを理由に申立てを排斥する場合と手続的要件が欠けることを理由に排斥する場合の双方に用いていると理解することにより、解決される。これは、大正10年の破産法の用語法である。当時の教科書では、前者は「理由なきものとして棄却する」、後者は「不適法として棄却する」と書かれている(詳しくは、講義メモを参照)。

したがって、最初に説明した「棄却」と「却下」の用語法も絶対不変のものではなく、時代によって移り変わってきて、現在では前記のように用いられているにすぎないことになる。

教師として悩むのは、判決手続の試験において学生が棄却と却下の用語法を間違えたときに、どの程度減点するかである。あまり目くじらを立てる問題ではないと思いつつも、しかし、他の試験でこの間違いをして、「民事訴訟法の基本がわかっていない」と判断され、減点されるおそれもある、と。。。
「積極的要件」と「消極的要件」
法律効果を定める規定において、要件要素A1,A2,A3の存在することが要件とされている場合に、A1, A2, A3を一括して積極的要件という(なお、「A1は積極的要件である」と表現することもあるが、これは、「A1は、積極的要件の集合に属する」という意味の縮約表現と目される)。要件要素B1,B2が存在しないことが要件とされている場合に、B1, B2を一括して消極的要件という。

例えば、[高橋*重点講義・下v2]5頁は、訴訟要件について、次のように述べている:「積極的要件とは、国際裁判管轄、当事者能力、訴えの利益等々のように、その存在が本案判決の要件になるものであり、消極的要件とは、仲裁契約、重複訴訟のように、その不存在が本案判決の要件になるものである」。

証明責任の分配  そして、通常は、「消極的要件については、法律効果の不発生を主張する者が証明責任を負う」との命題が妥当する。例えば、消極的要件である仲裁契約について言えば、(α)その不存在について原告が証明責任を負うとすることもできないわけではないが、一般には、(β)その存在について被告が証明責任を負うと考えられている。この場合には、前記の証明責任分配が妥当する。しかし、前記のように定義された「積極的要件」「消極的要件」の区分と、「消極的要件については、法律効果の不発生を主張する者が証明責任を負う」との命題とが整合しない場合がある。例えば、
  1. 文書提出義務を定める民訴法220条4号は、「前3号に掲げる場合のほか、文書が次に掲げるもののいずれにも該当しないとき」に文書所持者は提出義務を負うとしている。「次に掲げるものに該当しないこと」が要件になっているのであるから、「次に掲げるもの」は、消極的要件であるということができる。しかし、その証明責任の分配については、多数説は、提出義務の存在を主張する者(提出命令申立人)が「次に掲げるものに該当しないこと」の証明責任を負うと解されている。前記の証明責任分配を妥当させようとすると、「「次に掲げるものに該当しないこと」が積極的要件である」と主張しなければならないが、それは、「消極的要件とは、その不存在が法律効果発生の要件であるもの」との当初の定義と齟齬を来すことになろう。
  2. 民事執行法167条の16は、扶養義務等に係る定期金債権を請求する場合の特例として、次のように規定している:「債権者が第151条の2第1項各号に掲げる義務に係る確定期限の定めのある定期金債権を有する場合において、その一部に不履行があるときは、第30条第1項の規定にかかわらず、当該定期金債権のうち6月以内に確定期限が到来するものについても、前条第一項に規定する方法による強制執行を開始することができる」。そこにいう「不履行があるとき」は積極的要件の体裁をとっているが、「履行がないとき」と言い換えることができ、そのように言い換えると、消極的要件となる。極端に一般化して言えば、「非Aが存在すること」は「Aが存在しないこと」と言い換えることができ、「Aが存在すること」は「非Aが存在しないこと」と言い換えることができ、積極的要件と消極的要件の区分に、本質的な意味はないということになる。しかし、法律の世界にあっては、多数の雑然とした物を整理整頓して提示することを重要である。
除外事由  そこで、「法律効果の発生を主張する者に不存在の証明責任が負わされている要件要素」を「除外事由」呼び、消極的要件要素と区別することがある。この概念を導入すると、(α)「除外事由」は「消極的要件」には含まれない。また、(β)「積極的要件については、法律効果の発生を主張する者が証明責任を負い、消極的要件については、法律効果の発生を否定する者が証明責任を負う」との命題を前提にし、かつ、「積極的要件(要素)とはその存在が法律効果の発生の要件になるものであり、消極的要件(要素)とは、その不存在が法律効果の不発生の要件になるものである」との定義を前提にすると、「除外事由の不存在が積極的要件に含まれる」と説明することもできない。その説明は、前述の「積極的要件」の定義と齟齬を来すからである。その齟齬を嫌うならば、(γ)除外事由は、積極的要件にも消極的要件に含まれない第三類型に位置付けることになる。
もっとも、この3分法を煩瑣と考えるならば、「積極的要件(要素)とはその存在が法律効果の発生の要件になるものであり、消極的要件(要素)とは、その不存在が法律効果の不発生の要件になるものである」との前提を放棄して、「除外事由の不存在」を積極的要件に含め、「除外事由とは、その不存在が積極的要件となるものである」と説明することも可能である。
民事執行法167条の16について言えば、「不履行があるとき」と規定した趣旨は、「不履行」について執行債権者に証明責任を負わせる趣旨でこのように規定されたのであるから、「不履行」は積極的要件の一部である。「不履行」に代えて「履行がない」の語を用いる場合には、「履行」が除外事由となる(その点を明示する方法としては、「履行のないことが証明されたときは」と規定することが考えられよう)。

文献における「積極的要件」と「消極的要件」がどのような意味で用いられているかは、上記の意味での「除外事由」がどのように扱われているかに注意して読む必要がある。
「訴えの取下げ」と「請求の放棄」
この用語法も確定している。ここにいう「請求」は、「訴えによりなされている一定の権利関係の主張」を意味し(狭義の請求)、「請求の放棄」は、「原告が訴えによりなされている権利関係の主張に理由がないことを認めること」を意味する。原告が請求を放棄すると、裁判所が請求棄却判決をするのが本来であるが、大正15年改正以来、調書に請求の放棄の陳述を記載すれば、その記載が判決の代用になるとされ(現行民訴法267条)、判決をすることなしに訴訟は終了するものとされている。これに対して、訴えの取下げは、訴え提起行為の撤回であり、「自己の権利主張に理由がないことを認める」との陳述を含まない。したがって、第一審で訴えが取り下げられた場合には、原告は再度同じ訴えを提起することができる(上訴審での訴えの取下げについては、262条2項に注意)。これに対して、請求の放棄が調書に記載されると、原告が主張した権利関係は存在しないとの判断に「確定判決と同一の効力」(既判力)が生じ(民訴法267条)、原告は同じ請求について再度訴えを提起しても、その請求(権利主張)は既判力により妨げられる。

このような違いがあるので、「訴えの放棄」とか「請求の取下げ」という表現は、通常はしない。もっとも、訴えの交換的変更の説明の場面で、「旧請求に係る訴えの取下げ」の縮約表現として、「請求の取下げ」と述べることは許容範囲と考えたい。例えば、[条解*2011a]1438頁は、「訴えの交換的変更は、新請求の提起が適法であることを法定条件とする旧請求の取下げ」であると述べる。

なお、[河野*民訴]667頁は、「請求の減縮についてはこれを訴えの一部放棄である場合もあるとする見解がある(兼子370頁)」と述べており、「訴えの放棄」も「請求の放棄」の代替表現として許容範囲なのかもしれない(ただし、[兼子*体系v3]370頁は、「請求の一部放棄」と述べているので、単なる誤記なのかもしれない)。
「担保権を設定する」
ある財産に担保権を設定することは、財産の処分行為の一つであり、担保権を設定することができる者は、財産について管理処分権を有する者(所有者等)である。したがって、「債務者が債権者のために担保権を設定する」という表現は正しい。他方、「債権者が債務者の財産に担保権を設定する」という表現は誤りであり、少なくとも不適切である。債権者を主語にするのであれば、「担保権を取得する」あるいは「担保権の設定を受ける」と表現すべきである。

授業ではこのように説明するのであるが、「担保権を設定する」が「担保権を取得する」あるいは「担保権の設定を受ける」の意味で使われている場合もある。例えば、
「遅延利息」と「遅延損害金」
債務者が債務をその本旨にしたがって履行しないことにより、債権者に損害が生じた場合には、債務者はその損害を賠償しなければならない(民法415条)。損害の賠償は、金銭でなされるのが原則である(同417条)。義務の履行が履行期よりも遅れた場合に、それによる損害賠償金を「遅延損害金」という。債務者の負っていた債務が金銭債務である場合には、遅延損害金は、その債務額に一定の数値を乗じて算出され、その一定の数値は、一年を基準にした一定割合と遅延期間の積として表される(同419条)。それは利息の計算方法に似ているので、「遅延利息」ということもある。しかし、現在では、債務不履行により「利息」が生ずると表現するのは適切ではないとの考えに基づいて、「遅延損害金」の意味で「遅延利息」の語を用いることは控えられるようになつている。しかし、まったくないわけではない。下記の法条にいう「遅延利息」は「遅延損害金」の意味である。
納税者が「納付すべき国税をその法定納期限までに完納しないとき」等に課せられる金銭は、遅延損害金に相当するものであるが、これは「延滞税」と呼ばれる(国税通則法60条1項)。
義務を有する
ある名詞について用いることのできる動詞には、限定がある。意味連関上の限定から、例えば、「権利を食べる」とは言わない(ナンセンスな表現を楽しむ場合や思考実験の場合は別である)。そして、一種の慣用による限定がある。例えば、「権利を有する」と言い、「権利を負う」とは言わない。

「義務」については、通常、「負う」が用いられる。この慣用を尊重すると、例えば賃借人の賃貸人に対する関係を表現する際に、「被告は賃借人としての権利を有し義務を負う」という表現が正しい。しかし、長い。表現を簡潔にするために、権利と義務の双方に一つの動詞を用いて、「被告は賃借人としての権利と義務を有する」と表現したくなる。そして、「義務を有する」という表現は、最高裁判例で古くから用いられているのであり(例えば、最高裁判所昭和23年3月17日第1小法廷判決(昭和23年(れ)第1167号)、普通の表現である。

それでも、表現を簡潔にするといった必要がないかぎりは、「義務を負う」を標準的表現とするのが無難だろう。「被告が有している義務」よりは、「被告が負っている義務」の方がわかりやすい(「被告が有する義務」だと、文脈によっては、読者が「被告が有する権利」のタイプミスではないかと考えて、読み直す可能性が高まる)。
順接の「***であるが、」と「***であるところ、」
「***であるが、」は、順接の意味でも用いることができるが、法学の分野では、逆接を示すために用いることが多く、順接の意味で用いられることは少ない。順接の意味で「が」を用いるよりは、その前で文を切って(句点を置いて)、複数の文にする方が読みやすくなるからである。多数のことを一文にまとめる必要があるときには、順接の接続助詞を用いる必要があるが、その場合には、「が」よりも「ところ」がよく用いられているようにみえる(判決文ではその傾向が強いように感じられる)。例:

もっとも、次の例の「ところ」は、逆接とみるべきであろうから、接続助詞「が」は逆接に、「ところ」は順接に用いると決めつけない方がよい。
期日の「変更」と「延期」と「続行」
裁判所(ないし裁判官)と当事者とが一定の日時に一定の場所に会合して所定の訴訟行為(通常は、対話)をする場合に、その日時を期日という。期日は開始時刻が指定されるが、終了時刻は指定されないのが通常であり、期日は、「裁判所と当事者間で一定の場所に会合して所定の訴訟行為をなす時間帯」であると言い換えることもできる。以上のことを前提にして、次の言葉が次のように定義されている。
この用語法は、判決手続に限らず、民事手続一般において守られるべき用語法であると思われるが、言葉の使い分けが微妙になる場合もある。

法律の中での用語の定義のしかた


法律の中で特定の言葉を特定の意味で使用することを明示する方法には、いくつかの方法がある。

法律の総則部分に用語の定義規定を置く方法  この方法は、古いタイプの法律では採用されていない(古い法律(例えば、明治29年民法)や最近の法律であっても古い法律の流れをくむもの(例えば、明治23年民事訴訟法・大正15年改正法の流れを組む平成8年民事訴訟法)。しかし、最近の法律ではよく採用されている(例えば、著作権法(昭和45年)2条、民事再生法(平成11年)2条、破産法(平成16年)2条)。

定義規定の構成方法には次の2種類がある。
a'上記の変形として、一つの法律の中の特定の章で用いられる用語の定義規定がその章の初めの部分に置かれることがある。例えば、民事再生法第10章「住宅資金貸付債権に関する特則」等で用いられる「住宅」や「住宅資金貸付債権」などの用語の定義が196条で規定されている。

かっこ書で用語を定義する方法  一般的な方法は、「・・・B(以下「A」という。)・・・」と記す方法である。かっこ書の基本的な意味は、比較的長い表現Bに代えて、以下では簡潔な表現Aを用いるという点にあるが、それは、繰り返し用いられる用語AをBと定義する、という意味をもつ。例えば、民事執行法(昭和54年)7条、民事訴訟法6条がそうである。

定義規定が置かれている条項(x条y項)よりも前の条項において用語Aを用いる場合には、「x条y項に規定するA」という形で用いる。例えば、民事再生法では、97条で「再生手続開始前の罰金等」の定義がなされているが、この用語を87条3項において用いる際に「97条に規定する再生手続開始前の罰金等」としている。他方、97条より後ろの113条では、「97条に規定する」という修飾語を付すことなく「再生手続開始前の罰金等」の用語が用いられている。

')上記の変形として、次のような定義方法もある:ある条項(x条y項)において実質的内容が定められ、他の条項において「x条y項のB(以下「A」という)・・・」と定義する(前者を「実質的定義条項」、後者を「形式的定義条項」と呼ぶことにしよう)。例えば、民事再生法43条1項で、事業譲渡に関する株主総会の決議に代わる裁判所の許可の制度が規定され、同条2項で「前項の許可(以下この条において「代替許可」という。)」という形で、「代替許可」の定義かなされている。この方法は、実質的定義条項と形式的定義条項とが近接していること(さらには、1項がかなり長いこと)を考慮すると、1項の「株主総会の決議による承認に代わる許可」の直後にかっこ書の定義規定を置くよりも、賢明といえよう。同様の例として、民事再生法62条2項・64条2項・79条がある。

ところで、民事再生法94条1項では、「第34条第1項の規定により定められた再生債権の届出をすべき期間(以下「債権届出期間」という。)」という定義がなされているが、34条1項は「裁判所は、再生手続開始の決定と同時に、再生債権の届出をすべき期間及び再生債権の調査をするための期間を定めなければならない。」となつており、期間が名詞として用いられており、かつ条文の文言も短いのであるから、34条1項で「再生債権の届出をすべき期間(以下「債権届出期間」という。)」と定義することができ、かつ、その方が読みやすいと思われる。それにもかかわらず、実質的定義条項と形式的定義条項とを分離した理由は、よくわからない。

民事再生法47条では、「第35条第1項の規定による公告(以下「再生手続開始の公告」という。)」という形式的定義がなされている。このように実質的定義条項と形式的定義条項との分離が生じた理由は、35条1項で「公告」の語が名詞としてではなく「公告しなければならない」という動詞として用いられるためであると思われるが、2つの条項の距離を考慮すると読みやすいとはいえない。35条1項本文の末尾にかっこ書の定義を置く(「・・・公告しなければならない(以下この公告を「再生手続開始の公告」という。)」と規定する)方が読みやすいように思える。

受身を表す接頭辞


一般に名詞(被形容語)の前に動作の示す語を形容語として付して簡潔な語を造る場合に、
受身(受動)を表す接頭辞として、次の2つがある。
「受」と「被」の使い分け
「嘱託を受ける者」は「嘱託される者」と言い換えることができるから、「被嘱託者」も許容範囲内であろう。嘱託される者から見ると、嘱託する者は「嘱託元」と表現することができ、嘱託する者から見ると、嘱託される者は「嘱託先」と言うことができる。したがって、「嘱託される者」の簡潔な表現は、「受嘱託者」「被嘱託者」「嘱託先」の3つが可能である。いずれも正当な日本語表現である。民事法の世界でどれが良く用いられているかは、慣用の問題であるが、少なくとも民訴法186条の調査の嘱託については、「受嘱託者」がよく用いられ、「被嘱託者」は少ない。この点をどのように考えたらよいであろうか。

次のような例から見ると、英文法でいう間接目的語については、「受」を用いるとの用語法を設定することができる(ただし、「被予告通知者」のように、法律が「被」を用いて場合もあることに注意しなければならない)。
この用語法を前提にするならば、直接目的語については、「被」を用いることになろう。もっとも、直接目的語が主語などと異質のものである場合には、受身を現す接頭辞を用いなくてもよい場合があろう。例えば、「被嘱託事項」と言わなくても、「嘱託事項」で十分である。他方、移送決定をすること自体も一つの事件と観念することができる(「移送決定に対する即時抗告事件」の原審事件の意味での「移送事件」)。これとの混同を避ける意味で、「移送された事件」は「被移送事件」ということが好ましいように思われる。
「差押債権」と「被差押債権」
差押債権者によって「差し押さえられる債権」は何というか。前記の造語法に従えば、「被差押債権」であるが、「差押債権」という語もよく用いられ(例えば、最高裁判所 平成23年9月20日 第3小法廷 判決(平成23年(許)第34号))、実際上はこちらの方が多いであろう。民事執行法自体は、差押債権や被差押債権という表現は用いずに、「差し押さえるべき債権」・「差し押さえた債権」・「差押えに係る債権」・「差し押さえられた債権」の語を用いている。

動産執行に関しては、差し押さえられた動産を「被差押物」といっても誤りではないが、民事執行法123条3項が「差し押さえた動産(以下「差押物」という)」との定義規定を置いているので、通常は「差押物」の語を用いる。「差押債権」の語は、これと平仄を合わせるために用いられているのであろう。

では何故「被差押物」ではなく「差押物」なのか。おそらく、「仮差押えの執行がなされた物」を「被仮差押物」と言ったのでは、冗漫で口調もよくないからであろう。これを「仮差押物」というのであれば、「差し押さえられた物」は「差押物」となり、「差し押さえられた債権」は「差押債権」ということになる。

どうでもよい話であるが、民事手続法の世界の標準的な用語法にしたがって論述しようと心懸けると、つい気になってしまうことである。

同じことを意味する異なる表現


「以下」と「超えない」(「以上」と「下回らない」)
「以下」は、伝統的な日本語の表現である。簡潔でわかりやすい。平成8年制定の現行民事訴訟法は、この表現を用いている(例えば、民訴法368条「訴訟の目的の価額が60万円以下の金銭の支払の請求」)。
「超えない」は、ヨーロッパの言語の表現であり(not more than)、日本語の世界ではわかりやすいとは言えない。そのわかりやすいとは言えない表現も、民事手続法の領域でよく用いられる。例えば、太平洋戦争に敗戦して間もない昭和22年に制定された裁判所法は、この表現を用いており、33条1項1号では、「訴訟の目的の価額が140万円を超えない請求」と表現されている。これなどは、「140万円以下の請求」という方がわかりやすい。

民事再生法230条6項は、小規模個人債務者の再生計画案の可決に関する規定であるが、次のように規定する:
文中の「二分の一を超えないときは」を「二分の一以下のときは」とする方が読みやすくなると感ずる。

ちなみに、日本語の「以上」に直接対応する英語の表現として、"[number] or more" も用いられているが、not less than [number]" と同様に基準となる数値を後に置く表現は、equal to or more than [number]"" であり、冗漫である。民法903条2項は、この冗漫な表現を用いている:「遺贈又は贈与の価額が、相続分の価額に等しく、又はこれを超えるときは、・・・」(ちなみに、民法でこの表現方法を用いているのは、2009年11月29日の時点では、同項だけである。「法令データ提供システム」に掲載されている民法の条文の検索結果による)。「以上」を用いて同項を書き直せば、「遺贈又は贈与の価額が相続分の価額以上であるときは、」となろう。

なお、数量の範囲を示す言葉が名詞の修飾語として、あるいは副詞句として用いられる場合には、簡潔な表現を用いる必要性が高いので、「以上」「以下」が用いられる(例えば、民法258条2項:「・・・二十年以上五十年以下の範囲内において・・・」、民法770条1項3号:「配偶者の生死が三年以上明らかでないとき」)。「等しく、又はこれを超える」という冗漫な表現が用いられているのは、述語部である。
「以前」と「あらかじめ、又は同時に」
総務省の法令検索システムで検索しても、「申立以前」「申立て以前」はない。「申立ての時」を一つの瞬間と理解すれば、その瞬間を含むか否かは実際上は重要ではないことになるが、しかし、「申立てと同時」のこともあるだろうから、「申立て以前」の表現も法令のどこかにあってもよさそうであるが、2007年9月8日に検索した結果はゼロ件であった。「申立以後」「申立て以後」についても、同じである。

民事執行法29条は「あらかじめ、又は同時に」という表現を用いている。これなどは、「以前」と同義のはずであるが、同条の文脈では、単純に置き換えることはできないのでこのような表現になったと思われる。しかし、仲裁法41条3項「当事者は、第一項の申立てをするときは、あらかじめ、又は同時に、他の当事者に対して、当該申立ての内容を記載した通知を発しなければならない」における「あらかじめ、又は同時に」は、「それ以前に」に置き換えてもよいであろう。

ただし、実のところ、時刻が関係する場合に、「以」が基準時を含むか否かは、曖昧である。論文等において、基準時を含む意味で「以前」あるいは「以後」を用いる場合には、誤解されないように、その点についての断書きを明示しておく方が安全である。
「日以後」「日以前」
この場合には、基準点は時刻ではなく、日である。「ある日以後」は、その日を含む。例えば、民法442条2項は、次のように規定している:「前稿の規定による求償は、弁済その他免責があった日以後の法定利息・・・の賠償を包含する」と規定しており、弁済日の利息も請求できる。同項が4502項により受託保証人の求償権について準用される場合も同様である。

「日以前」の例として、民法462条2項がある。
「人」「個人」「自然人」
法人や団体に対比させて、生きている人を指す場合に、民法は、「人」の語を用いる(1編2章の見出し)。民事訴訟法(平成8年6月26日法律第109号)も「人」である(4条)。そして、民法では、「法人」との区別を強調するために「自然人」の語を用いることが多い。法令の中で「自然人」の語が用いられることは、それほど多くはないが、「法人」と違いを強調するために「人」ではなく「自然人」の語が用いられる場合がある。例えば、不動産登記規則(平成17年法務省令第18号)63条(「自然人である代理人」)、著作権等管理事業法施行規則(平成13年文部科学省令第73号)2条(「自然人たる主要株主」)、犯罪による収益の移転防止に関する法律(平成19年法律第22号)4条(「当該顧客等が自然人である場合」)など。

他方、民事再生法(平成11年12月22日法律第225号)は、「個人」の語を用いる(4条)。破産法(平成16年6月2日法律第75号)もこれにならった(4条)。

この表現の微妙な差異から、日本の民事手続法の立法に影響を与える外国法の移り変わりを読みとることができる。(α)民法は、ヨーロッパ大陸の法(特にフランス法とドイツ法)の影響を強く受けた。明治23年の民事訴訟法も大正15年の民事訴訟法も同様である(明治23年法は、ドイツ民事訴訟法を翻訳して受け継いだものである)。平成8年民事訴訟法の立案にあたった法制審議会の有力メンバーのバックグラウンドは、ドイツ法であり、同法の基調もドイツ法である。したがって、民事訴訟法は、民法と同様に、「人」の語を用いる。(β)しかし、民事再生法は、「個人」の語を用いている。これは、アメリカ法の表現である(cf. 11 USCS sec. 101(30) : The term "individual with regular income" means individual whose income is sufficiently stable and regular to enable such individual to make payments under a plan under chapter 13. 民事再生法221条1項も参照)。民事再生法が、アメリカ合衆国の破産法の影響を受けていることは、実質的な内容のみならず、こうした形式的な点にも現れている。

ついでに言えば、一つの条文がうんざりするほど長く、読みにくくなるほどにカッコが多用されているのも民事再生法や破産法の特徴である(明治29年民法の簡潔な表現を見ると、ほっとする)。民事訴訟法は、平成8年成立当時の条文は、簡潔を旨としていた。しかし、その後の改正では、民事再生法や破産法と同様に、条文が長くなっている。現行民事訴訟法は、立法技術(条文の規定の仕方)に関して、新旧二つの流れが混在した法律といってよい。

なお、「個人」の語を自然人のみならず法人を含めた意味で用いている文献もある。 もっとも、「個人」の語を「法人を含めた意味で用いるのは、今の時点(2014年1月)では異例というべきであろう。
「・・・の裁判は、口頭弁論を経ないですることができる」と「決定で、裁判をする」
民事執行法、破産法などには、「・・・の裁判は、口頭弁論を経ないですることができる」という規定が置かれている(仲裁法6条、民事執行法4条、民事保全法4条、破産法8条1項など。なお、民事執行法4条では、「執行裁判所のする裁判は、・・・」となっているので、執行裁判所以外の裁判所がする裁判(裁判所が執行裁判所以外の資格においてする裁判)については、個別に同趣旨の規定が置かれている。例えば、32条3項)。

これらの規定は、裁判を決定の形式ですべきことを意味している。すなわち、判決で裁判をする場合には、口頭弁論を経ることが原則であり(民訴法87条1項)、決定で裁判する場合には、口頭弁論は必ずしも開かなくてもよいので(87条1項ただし書・2項)、「口頭弁論を経ないですることができる裁判」は、「決定でする裁判」を意味する。それほど難しい論理ではないが、抵抗を感ずるのは、表現の回りくどさである。
民事手続法の勉強を始めた頃は、そのようにいぶかっているうちに疲れてしまった。民事訴訟法では、幸いと、こうした回りくどい表現はない。例えば、223条1項第1文(前段)は、「・・のときは、決定で、・・・を命ずる」である。

「・・・の裁判は、口頭弁論を経ないですることができる」といった回りくどい表現は、それほど多くはないが、しかし、出会ったときに素直に飲み込むことができること(あえて言えば、清濁併せ呑むだけの度量があること)は、法律の勉強を効率的に進める上で重要である。
「Aの時を基準とする。ただし、それより先にBが生ずればBの時を基準とする」
これと「AとBのいずれかが先に生じた時を基準とする」との適用結果は、同じである。結果が同じであれば、短い表現である後者を用いればよいのにと思うのだが、民事手続法の領域では、しばしば回りくどい前者の表現が用いられる。例えば、
差押えによる処分制限の効力を第三者に対抗するためには、不動産登記簿に差押えの登記がなされることが必要であるので(民法177条)、実際には、差押えの登記がなされた頃を見計らって債務者に競売開始決定書を送達している。従って、46条1項本文よりもただし書が適用される場合の方が多い。その点からすれば、46条の本文とただし書とは入れ替える方が素直である。それにもかかわらず、46条1項は、そうせずに、かつ「AとBのいずれかが先に生じた時を基準とする」という簡潔な表現も採用しなかった。なぜか。それは、「差押えにより債務者の処分権限が制限されるが、その効力は、本来、差押えの宣言が記載されている強制競売開始決定書が債務者に送達された時に生ずべきものである。登記がなされても、債務者がそれを直ちに知ることができるとは限らず、債務者の知らないうちに彼の権限が制限されるというのは例外である」との考えを基礎にしているからである。

このように、簡潔な表現よりも回りくどい表現が用いられている場合に、そこに法学的な意味合いが込められていることもある。

他方、短い表現(「AとBのいずれか遅い(早い)時を基準とする」)を用いている例として、次のものがある。
配当組込主義の2つの表現
日本で破産手続開始決定を受けた債務者が外国に財産を有する場合に、その財産(在外財産)も日本の破産手続における破産財団に含まれる(破産法34条1項カッコ書。普及主義)。しかし、その財産が所在する外国が日本で選任された破産管財人の管理処分権を否定すること、あるいは日本の破産管財人が当該外国に出向いて財産の管理処分をすることが実際上困難なこともありうる。その場合には、個々の債権者が当該外国で開始された倒産処理手続等に参加して配当等を得ることも承認しなければならない。その場合に、日本の破産手続に参加する債権者のうち在外財産から配当等を得た債権者とそうでない債権者との公平を図るために、次のように規定されている。 これは、在外財産からの配当金(弁済金)を日本の破産財団(配当財団)に組み込むことと等価であり、それゆえ「配当組込主義」と呼ばれる。

同様なことは、民事再生手続において再生手続終了後・再生計画の完遂前に再生債務者について破産手続が開始された場合についても規定されている。債権者の中に再掲計画に従って弁済を受けた者とそうでない者とが存在して両者の公平を図ることが必要な場合に、再生手続における弁済金を配当財団に組み入れて配当するのである。ただ、民事再生法190条3項が「再生債権であった破産債権については、その破産債権の額は、従前の再生債権の額から同項の再生計画により弁済を受けた額を控除した額とする」と規定しているため、配当組入主義を定める規定が、次のように、幾分複雑になっている(同条4項)。規定を分解して書くと、次のようになる
  1. 前項の破産手続においては、同項の破産債権については、第一項の再生計画により弁済を受けた場合であっても、
  2. 従前の再生債権の額をもって配当の手続に参加することができる債権の額とみなし、 破産財団に当該弁済を受けた額を加算して配当率の標準を定める。
  3. ただし、当該破産債権を有する破産債権者は、他の同順位の破産債権者が自己の受けた弁済と同一の割合の配当を受けるまでは、配当を受けることができない。
上記のbの部分とcの部分とは、実質的には同じことである。正確には、次の前提条件が満たされる場合には、同じことである: 再生計画にしたがって弁済を受けた者に関する弁済率よりも破産手続における配当率の方が大きい。

例えば、債権者Aの債権額をa円とし、この債権者のみが再生計画に従ってp円の弁済を受けたとしよう。他の債権者をひとまとめにしてBとし、その債権額をb円とする。破産管財人は、配当原資としてq円を有するものとする。配当財団は、Aが再生計画に従って受けた弁済金p円とその他の財産から得られた金銭q円とから構成されることになる。4項bによりAが受領すべき金額は、次のようになる。。
 (p+q)×a/(a+b)  乗算記号を省略すると
=(p+q)a/(a+b)
4項cに従えば、どうなるか。まずは準備の計算をしておこう。q円は、債権者Aが受けた弁済率を上回る配当を債権者Bに与えるものであるので、同率の配当を与える部分(rとする)とその余の部分(sとする)とに分解することができる。
 p/a=r/b  r=b×p/a
 q=r+s  s=q−r  (前提条件から、s≧0)
 s×a
=(q−r)×a  以下では、乗算記号を省略すると
=qa−ra   r=b×p/aを代入すると、
=qa−bp
4項cに従えば、債権者Aが破産手続から受領する配当金は、 s×a/(a+b)円である。
債権者Aが再生計画により受領する弁済金p円と破産手続からの配当金との合計額は、次のようになる。
 p+{s×a/(a+b)}  以下では、乗算記号は省略する。
=p+{sa/(a+b)}  sa=qa−bpを代入すると、
=p+{(qa−bp)/(a+b)}
= {p(a+b)+(qa−bp)}/(a+b)
=( pa+qa)/(a+b)
= (p+q)a/(a+b)

したがって、前記の前提条件が満たされる限り、4項bのみから得られる結果と、4項cのみから得られる結果とは一致し、両者は同じことの別の表現と言うことができる。民事再生法190条7項(再度再生手続が開始された場合)が4項bと同じ表現形式を用いていることを考慮すると、4項cを残せばよい。もっとも、 これとの関係で、4項cについて誤解が生じないようにするために、4項bがあった方がよいと言えなくもない。

ともあれ、前記の前提条件が充足されない場合にどうするかの問題がある。この場合には、債権者Aは過大に弁済を受けたことになり、過大弁済部分を破産財団に持ち戻すべきであるとの考え(過大弁済金返還説)に立てば、4項bはその趣旨を定めた規定として意味を持つことになり、4項bを残すべきことになる(ただし、現時点(2013年12月)で、過大弁済金返還説が通説になっているとまでは言えない)。
「出来事Eの日からW週間内」と「出来事Eの日の翌日からW週間内」
民事訴訟法285条本文は、次のように規定している:「控訴は、判決書又は第254条第2項の調書の送達を受けた日から2週間の不変期間内に提起しなければならない」。そこにいう「送達を受けた日から2週間」を「送達を受けた日の翌日から2週間」に書き換えることができるであろうか。一見すると、後者の控訴期間は、前者の控訴期間よりも1日長くなりそうである。しかし、送達がある日の午前0時0分0秒になされる特殊な場合(通常あり得ない場合)を無視すれば、両者は同じ表現である。例えば、送達が6月1日になされた場合に、
  1. 「送達を受けた日から2週間」の末日は、6月15日になる。初日不算入の原則(民訴法95条1項、民法140条)に従い6月2日が起算日になる。そして、民法143条2項により起算日に応答する6月16日の前日である6月15日が末日になる(この過程をそのまま式で表現すると、1+1+14−1=15であるが、単純化して、1+14=15で計算する)。
  2. 「送達を受けた日の翌日から2週間」の末日も6月15日である。「送達を受けた日の翌日」は午前零時に始まるので、民法140条本文の適用はなく(同条ただし書)、6月2日が起算日になる。後は、aの場合と同じである。
「出来事Eの日の翌日からW週間内」のタイプの表現を用いている規定として、次のものがある。 一つの条文の中で、 2つの形式の表現が用いられている場合もある。

似ているが別のことを意味する別の表現


「Aの前B日以内」と「Aの後又はその前B日以内」
破産法162条1項2号に「支払不能になる前30日以内にされたもの[行為]」という表現がある。これは、支払不能になった後にされた行為を含まない。このことは、同法160条3項の「支払停止等があった後又はその前6月以内にした無償行為」という表現と対照させればはっきりする。

まったく単純なことであるが、しかし、粗忽にも「Aの前B日以内にされた行為」を「Aの前B日より後にされた行為(A以後にされた行為を含む)」と読んでしまったことがある(苦い思い出だ)。そのように読む方がバランスのとれた妥当な結論が得られると考えるときには、「法文は「Aの前B日以内になされた行為」となっており、これは「A以後になされた行為」を除外する文言であるが、バランスのとれた妥当な解決を得るために、「A以後になされた行為」も含むように拡張解釈すべきである(一種の類推適用)」と説明しなければならない。
「みなし適用」と「準用読替え」
ある規定を本来の適用範囲外のものに適用(準用)することを法令で規定する場合に、どのような方式で表現するかの問題である。次の2つの規定方式がある。 これら二つの方式表現は、上記のように抽象的に(BとCの内容を捨象して)書くと、一見したところ互換性があるようにも見えるが、常にそうであるかを考えてみよう。
 ()みなし適用方式から準用読替方式に書き換えることは、多くの場合に可能である。D条の中にCの文言がない場合には、みなし適用から準用読替への単純な書直しは可能ではないが、「D条の規定は、Aの場合おいて、Bについて準用する。この場合に、BはCとみなす」と書き直すことができよう。
 ()他方、準用読替えは、利用範囲が非常に広く、準用読替の全てをみなし適用に書き換えることはできない(特に、読み替える事項が複数ある場合、あるいは、読み替える事項が「みなす」と言うには適さない場合がそうである)。

このように、理論的には、一方から他方への書き直しは一定の制約の下で可能である。ただ、実際の法文で、一方から他方に書き直しができる例は、あまり見あたらない。しかし、まったくないというわけではなかろう。

みなし適用の規定を信託法から拾ってみよう。

みなし適用の規定は、次のような形式をとることもある。「D条の規定の適用については、BはCとみなす」。この形式の規定の例として、次のものがある。 なお、みなし規定においては、「適用」するといい、「準用」するとはいわない。D条の中にCがある場合に、BをCとみなした上でD条をBに適用するという趣旨である。
「意思表示の解釈規定」と「意思表示の推定規定」
次の3つの規定における「推定」の語を考えてみよう。
  1. 破産法47条2項:「破産者が破産手続開始の日にした法律行為は、破産手続開始後にしたものと推定する。」
  2. 民法619条:「賃貸借の期間が満了した後賃借人が賃借物の使用又は収益を継続する場合において、賃貸人がこれを知りながら異議を述べないときは、従前の賃貸借と同一の条件で更に賃貸借をしたものと推定する。」
  3. 民法136条:「期限は、債務者の利益のために定めたものと推定する。」

aは、「法律行為は、破産手続開始後にされた」という事実の推定である。bは、「従前の賃貸借と同一の条件で更に賃貸借をするという意思表示がなされた」ことの推定である。cは、「期限を設定するという意思表示」がなされたこと(その証明があること)を前提にして、その意思表示の解釈の原則を定める規定である。aは「事実の推定規定」と呼ばれ、cは「意思表示の解釈規定」と呼ばれ、両者は区別されている。では、bはどのように位置づけたらよいか。「一定内容の意思表示がなされた」というのも事実であるから、これも事実の推定規定である。

「 意思表示がなされたことの推定」は「意思表示の推定」と呼ぶことができる。ただ、その用語法が確立されているかというと、それは明瞭でない。「意思表示の推定規定」は、「意思表示の解釈規定」の意味で用いられることもありうると考えておく方が安全であろう。そもそもにおいて、意思表示Aと意思表示Bとが密接に関連している場合に、「意思表示Aがなされたときに、その意思表示に付随して意思表示Bがなされた」と考えることは、「意思表示Aの存在から意思表示Bもなされたことを推定する」と構成することもできるし、「意思表示Aの中に意思表示Bも含まれていると解釈する」と構成することもできるからである。したがって、「意思表示の推定」の語を事実推定の意味(前記bの用例の意味)で用い、「意思表示の解釈」と区別するとしても、「意思表示の推定」と「意思表示の解釈」とは紙一重である。

例えば、[三井*2010a]33頁は、就業規則の補充的効力について次のように述べている:労働契約法7条の規定は、「特に就業規則と異なる条件で契約するのではない場合には、合理性が存する限り就業規則に従って労働契約を締結する(即ち、合理性の存する限り労働条件は就業規則による)との当事者の意思解釈を行う(あるいは当事者意思の推定を行う)規定であると考えるべきであろう」。この叙述においては、「意思表示の推定」と「意思表示の解釈」とは別個のことであることを前提にして、その差異は紙一重と考えられていると理解してよいであろう(同書88頁の叙述もそのように読むべきであろう)。


言葉の使い分け


証言と陳述
証人尋問における証人の陳述には「証言」の語を用いる(民訴法196条以下)。当事者尋問における当事者の陳述は、たとえ宣誓していても「証言」とは言わずに「陳述」と言う(同法209条)。
尋問と質問
証人に証言させるために、証人を尋問する。鑑定人に意見を述べさせるために、鑑定人に対し質問をする。  質問も尋問も似たようなものであるが、ニュアンスはだいぶ異なる。ちなみに、「鑑定人の尋問」という表現は、かつて278条で用いられていた。平成15年改正で、215条の2で「鑑定人質問」の規定が置かれたが、278条の「鑑定人の尋問」は、そのままであった。同条の文言は、平成16年法律152号でやっと「鑑定人の意見の陳述」に改められた。

授業では次のように説明することもある。 かつては、鑑定人に対しても、証人に対するのと同様な、一問一答式の尋問がなされ、鑑定人が十分に意見を述べることができないとの不満をもつとともに、問い詰めるような尋問のために鑑定人に「二度と鑑定人になりたくない」との思いを抱かせることが多くあった。その結果、裁判所が鑑定人のなり手を見つけることに苦労するようになった。そこで、鑑定人にできるだけ不愉快な思いをさせずに意見を述べさせることができるようにする方式が工夫された。説明会方式である。つまり、まず鑑定人が説明し、その説明について不明な点があれば、当事者又はその代理人が質問するという方式である。鑑定人は、今では「鑑定人様」であり、失礼なことがあってはならない存在である。その趣旨も込めて、用語が「尋問」から「質問」に換えられたのである。

最高裁判所医事関係訴訟委員会が平成17年6月に提出した答申に次の記述があるる。「鑑定人の引受け手が見つからない理由として,医学界側から,例えば,鑑定人になり,時間を掛けて鑑定をしても裁判結果が伝えられないため,自分が行った鑑定がどのように裁判に役立ったのかが全く分からないことのほか,鑑定人への対応に問題があることが指摘された。具体的には,例えば,法廷で鑑定人に人格非難的との印象を抱かせるような質問がされることもあったため,真摯な気持ちで鑑定を引き受けた鑑定人に対する配慮が欠けているといった認識が医学界に広がってしまったとの指摘や,このような法廷内外における鑑定人に対する諸々の対応の結果が,鑑定,ひいては医学に対する敬意が欠如しているという誤解を与え,その結果,そのように軽視される鑑定であれば,そのために多くの時間と労力を使うことは無意味であるとの意識が医師の間に醸成されたとの意見も表明された。」

もちろん、鑑定意見の信頼性が当事者からの尋問・質問を経ることによって高まることに、昔も今も、変わりはない。最高裁判所 平成18年1月27日 第2小法廷 判決(平成15年(受)第1739号)は、鑑定人の意見書ではなく、当事者から提出された専門家の意見書について、次のように述べている。「同意見書が,被上告人提出のものであり,その内容について上告人らの尋問にさらされていないことも考慮すると,安易に同意見書の結論を採用することは相当でない」。
退廷と退席、弁論と申述
口頭弁論期日については「退廷」「弁論」の語を用いるが、弁論準備手続の期日については「退席」「申述」の語を用いる(263条)。期日を公開の法廷で行うのが原則であるか否かの違いに基づく(憲82条民訴法169条2項)。もっとも、「出頭」の語は、いずれの期日にも用いる(263条)。これに対し、[井上*1996a]38頁は、「出頭」を使って欲しくない言葉の一つとする。代わりに「出席」を使用し、「出廷」を次善の語とする。権力的な響きのある「出頭」でも、(α)法律で使用されている以上、いわば公共の言葉としてそれを受け入れるか、(β)それを拒絶してよりよい言葉を使用するか、迷うところである。しかし、講義では、法律の用語を用いることにしている。
「帰属する」と「属する(所属する)」と「含まれる」
「集合Aに要素aが含まれる」、「要素aが集合Aに属する」という表現は正常である。しかし、この文脈で、「属する」に代えて「帰属する」と表現すると、仰々しい。

「財産aが法主体Xに属する」という文において、「属する」に代えて「帰属する」の語を用いるのは、正常である(民事法の世界では、「権利義務の帰属主体」のことを「法主体」という)。しかし、「財産aが法主体Xに含まれる」と表現すると、違和感が生ずる。

破産財団は、財産の集合である(空集合であってもよく、「破産財団に属する財産が現実には皆無であった」という文も正常な文である)。したがって、財産と破産財団との関係について、「属する」あるいは「含まれる」の語を用いることができる。「所属する」も「属する」の同義語として用いることができる(例えば、「破産財団所属財産」)。ところで、かつては破産財団に法人格を認める見解(破産財団法人説)が有力であった。この立場に立つと、「破産財団に帰属する財産については、・・・」という表現も正常である。しかし、破産財団法人説は、現在では少数説であり、過去の見解であるといってもよい。

では、学生のレポートを添削して返却すべき場合に、レポート中に「本件不動産は、破産財団に帰属し、・・・」という表現が出てきたときに、どう対応するか。私は、「破産財団法人説を想起させる古風な表現です」と注記して返したことがある。レポートの添削は、あまり細かい点にこだわるのもよくない(授業そのものがそうである)。上記の注記は、細かすぎたような気もする。そして、「破産財団帰属債権」という表現を用いている教科書は、現在でも存在するのである(例えば、[中島*2007a]416頁)。

ちなみに、財産の集合を表す語は、破産法の世界では「破産財団」であるが、民事再生法の世界では「再生債務者財産」であり、信託法の世界では「信託財産」である。信託財産が財産の集合であることは、「受託者は、信託財産に属する財産の占有について、委託者の占有の瑕疵を承継する」(信託法14条)などにおいて特に明瞭である。
許可と同意
民事手続法の領域におては、裁判所については「許可」を用い、私人については「同意」あるいは「承諾」を用いるのが通例である。例えば、大正11年破産法において、「監督委員の同意」を要する行為をする必要があるときに、破産管財人は「裁判所の許可」を得てその行為をすることができる(198条1項。現行破産法78条2項も参照)。現行の借地借家法の下で、借地権の譲渡・転貸について「借地権者の承諾」が得られないときは、借地権者は承諾に代わる「裁判所の許可」を申し立てることができる(借地借家法19条1項)。ついうっかり、「裁判所の同意」と書いてしまって、後から「しまった」と思ったことが何度かある(失敗が散在すると、もれなく修正することが難しくなるので、失敗をしないように最初から意識しておく方がよい)。
知的財産の「利用」「実施」「使用」
これらのうちどれを用いるかは、知的財産の種類ごとに定まっている。著作物は「利用」であり、特許発明は「実施」であり、登録商標は「使用」である。しかし、破産法の論文の中で知的財産をまとめて論ずる場合に、「知的財産の利用、実施又は使用の許諾契約」と書いていると冗漫になるので、「本稿では、記述を簡潔にするために、これら全部を含めた意味で「利用」の語を用いることにする。」との断りを書いた上で([栗田*2015a]5頁注13)、「知的財産の利用許諾契約」と書くことも許容範囲内であろう。

程度を表す言葉


法律の世界は、基本的に言葉の世界である。もちろん判断基準を数字でもって表すこともあるが、しかし、伝統的な法領域においては、それが困難なことが多く、曖昧な言葉で程度が表示されることが多い。
「顕著な事由」と「やむを得ない事由」
これは、民訴法93条3項・4項で用いられている。「顕著」よりは、「やむを得ない」の方が程度が高い(後者が認められる範囲は、前者が認められる範囲よりも狭い)。
心証の度合い
裁判官が事実を認定する場合に、当該事実の発生の確実性についていだく認識を心証度という。

最高裁判所 平成12年7月18日 第3小法廷 判決(平成10年(行ツ)第43号)は、次のように述べている:「訴訟上の因果関係の立証は、一点の疑義も許されない自然科学的証明ではないが、経験則に照らして全証拠を総合検討し、特定の事実が特定の結果発生を招来した関係を是認し得る高度の蓋然性を証明することであり、その判定は、通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持ち得るものであることを必要とすると解すべきであるから、法八条一項の認定の要件とされている放射線起因性についても、要証事実につき「相当程度の蓋然性」さえ立証すれば足りるとすることはできない」。

ここで用いられている心証の度合いを表現する言葉を、その高い順に並べると次のようになる。
相当程度の可能性
最高裁平成9年(オ)第42号同12年9月22日第二小法廷判決・民集54巻7号2574頁で用いられている表現である。「疾病のため死亡した患者の診療に当たった医師の医療行為が、その過失により、当時の医療水準にかなったものでなかった場合において、右医療行為と患者の死亡との間の因果関係の存在は証明されないけれども、医療水準にかなった医療が行われていたならば患者がその死亡の時点においてなお生存していた相当程度の可能性の存在が証明されるときは、医師は、患者に対し、不法行為による損害を賠償する責任を負う」という文脈の中で用いられているのであるから、「相当程度の可能性」は「高度の蓋然性」よりは低い。最高裁平成14年(受)第1257号同15年11月11日第三小法廷判決・民集57巻10号1466頁では、次の趣旨が説示されている:急性脳症の予後に関する昭和51年の統計では,生存者中,その63%には中枢神経後遺症が残ったが,残りの37%(死亡者を含めた全体の約23%)には中枢神経後遺症が残らなかったこと,昭和62年の統計では,完全回復をした者が全体の22.2%であり,残りの77.8%の数値の中には,原告患者のような重大な後遺症が残らなかった軽症の者も含まれていると考えられることは,重大な後遺症が残らなかった相当程度の可能性が存在することをうかがわせる事情というべきである。

「生存していた相当程度の可能性の存在が証明されたとき」という表現は、「生存していた相当程度の可能性が存在することの高度の蓋然性があるとの心証をもつとき」と置き換えることができる。「相当程度の可能性が存在することの高度の蓋然性」の部分は、「相当程度の蓋然性」とまとめることができるかどうかは、微妙な問題であるが、仮にできるとすれば。前記の表現は、「生存していた相当程度の蓋然性があるとの心証」と言い換えることができよう。
「明らかなとき(明らかになったとき)」と「疑いがあるとき」
心証の度合いに応じて、効果(選択すべき手続)を異ならせる場合には、こうした表現で心証の度合いの違いを表す。例えば、(α)清算手続に入った会社が債務超過の状態にあることが明らかになったときには、会社財産の公平な分配のために、破産手続を直ちに開始する必要があるが、(β)債務超過の状態にあるか否かが明白でなくても、その疑いがあるときには、破産手続の開始はまだ必要ないが、清算手続を慎重に進める必要があるので、特別清算手続を開始する必要がある。清算人は、それぞれの状況において、破産手続開始申立義務(会社法484条1項)または特別清算義務(511条2項)を負う。なお、特別清算手続が開始された後は、会社が債務超過の状態にあることが明らかになったときでも、債権者集会において可決された協定が裁判所により認可されると、協定にしたがって清算手続が進められることになり、破産手続は開始されない(574条参照)。
Aが明日生じたとしても、驚かない(驚くべきことではない)
これも事物の生起の蓋然性に関する一つの表現である。一見すると、Aが近々生ずる可能性が高いことを表明しているようにも見えるが、そうでもない。「Aが生ずる可能性がないとは言えない」と言っているに過ぎないのである。

この表現の内容の少なさを示す代表例は、次の用例であろう:「東海大地震が明日起きても、驚くべきことではない」。そのように言われて、1967年に大規模地震対策特別措置法が制定されたが、それから40年以上経った今(2014年4月11日)でも東海大地震は起きていないのである。だからといって、この意見表明が誤りであったかと言えば、そうではない。「もしAならば、Bである」という仮言命題は、論理学的には、前件であるAが生じなければ、後件であるBの真偽にかかわらず常に真である。東海大地震が起きていない以上、「東海大地震が明日起きても、驚かない(あるいは、驚くべきことではない)」という命題は、真の命題である。たとえ地震が起きても、「予想通りのことであり、驚くべきことではない」という程度のことは言えるから、いずれにせよ真である。
看過し難い不利益
文書提出命令の対象となる自己利用文書の範囲に関する説明の中で、最高裁判所 平成11年11月12日 第2小法廷 決定(平成11年(許)第2号)により用いられた表現である。この表現により示される不利益は、次のどれに近いか(次のどの表現と置き換え可能か):著しい不利益、顕著な不利益、大きな不利益、重大な不利益、極めて重大な不利益、耐え難い不利益、受忍限度を超える不利益。授業で教えるときには、最高裁の用いた表現を踏襲する(この表現をそのまま覚えるように強く言う)。学生が他の表現を用いた場合に、どの範囲までを許容限度とするかを迷う。


強調表現


訴訟は、紛争解決の場である。各当事者が自己の主張が正しいことを強調し、裁判所は自己の裁判の正当性を強調する。したがって、強調の表現が多用される。強調は時に誇張となり、空虚さを感ずることもある。
「一人の生命は、全地球よりも重い」
死刑制度の合憲性を宣言した最高裁判所 昭和23年3月12日 大法廷 判決(昭和22年(れ)第119号)に現れる表現である。「生命は尊貴である」ことを強調したものであるが、地球の上に多くの人が存在しており、それも全地球の重さに含めれば、論理的には矛盾した表現である。その点は別としても、「一人の命は全地球よりも重い」と述べながら、死刑を肯定するのであるから、この強調表現に空虚さを感ずるのは私だけではなかろう。

では、この過大な強調表現は、死刑を合憲としたこの判決の中で、どのような意義を有するのであろうか。それは、死刑が例外であることを強調する点に意味がある。最高裁判例を読んでいると、前半部分で強調したことから素直に出てくる結論とは異なる結論が後半部分で示されることは、良くあることである。こうした論旨の展開のパターンは、当該事件に適用されるのは前半部分で強調された原則的法理ではなく、その例外法理である場合に生ずる。原則的法理を強調することは、(α)例外法理の適用範囲を限定することに第一の意味がある。しかし、それにとどまらず、(β)通常は、原則的ルールが適用されるべきものであるから、その遵守を関係者に求める意味がある場合もある。

後者(β)の例として、法廷メモの禁止に関する最高裁判所 平成元年3月8日 大法廷 判決(昭和63年(オ)第436号)を挙げることができる(レペタ事件)。この事件では、最高裁は、前半部分で、 と宣明しながら、後半部分で、 次のように述べて、メモの禁止により損害を受けたと主張する原告の損害賠償請求を棄却している。
その後の裁判実務に影響したのは、仄聞するところ、前半部分である。したがって、このような事件においては、事件の結論に結びつかない原則的法理を印象的な言葉で高らかに宣明することにも大いに意味がある。そこに虚しさを感ずる必要はない。また、判例の要旨を作成する際にも、原則的法理の部分を落とすわけにはいかない。

原則の強調が足りなかった例  原則の強調が足りなかったために、例外されるべき取扱が原則であるかのように見えた例として、最判昭和56年4月14日・民集35巻3号620頁を挙げることができる。労働事件の会社側弁護士の申出により京都市弁護士会が労働者の前科を弁護士法23条の2に基づいて京都市中京区長に照会し、これにより得られた事実を弁護士の依頼者が公表したため、労働者がこれにより損害を受けたとして、京都市に対して損害賠償を請求した事例である。第一審判決・控訴審判決も重要であるが、ここでは省略しよう。最高裁は、 次のように説示して請求を認容すべきものとした。「前科等の有無が訴訟等の重要な争点となつていて、市区町村長に照会して回答を得るのでなければ他に立証方法がないような場合には、裁判所から前科等の照会を受けた市区町村長は、これに応じて前科等につき回答をすることができるのであり、同様な場合に弁護士法23条の2に基づく照会に応じて報告することも許されないわけのものではないが、その取扱いには格別の慎重さが要求されるものといわなければならない。本件において、原審の適法に確定したところによれば、京都弁護士会が訴外A弁護士の申出により京都市伏見区役所に照会し、同市中京区長に回付された被上告人の前科等の照会文書には、照会を必要とする事由としては、右照会文書に添付されていたA弁護士の照会申出書に「中央労働委員会、京都地方裁判所に提出するため」とあつたにすぎないというのであり、このような場合に、市区町村長が漫然と弁護士会の照会に応じ、犯罪の種類、軽重を問わず、前科等のすべてを報告することは、公権力の違法な行使にあたると解するのが相当である。」
 この判決がその後の23条照会の運用に大きな影響を与えた。この最高裁判決の呪縛から逃れるための努力を重ねた後で、この判決は前科という極めてセンスティブな情報(又はこれに匹敵する情報)に関する事例判決であるとの評価が定着した。
到底
「**の見解は、到底採用することができない」、「・・・であるとは、到底いうことができない」といった形で、判例の中で古くから用いられる表現である。古めかしさがあるだけに、こうした表現に初めて出会ったときには、インパクトを感ずるものである。しかし、何度も見かけると、インパクトは薄れ、あってもなくてもよい強調語になる。自分の論文の中で他人の見解に賛成できないときには、あっさりと、「***の理由により、この見解には賛成できない」としている。賛成できない見解が複数あり、不賛成の度合いを示すためにこの表現を用いることも考えられるが、その場合でも、「***の点に鑑みれば、A説は、B説よりも一層賛成できない」と述べるにとどめている。



強調表現ではないが、住む世界によって用いる言葉が違うことを感じさせる表現を挙げておこう。
その見解は、誤りである
価値相対主義の立場に立てば、他人の見解について賛否ないし当否は言うこともあっても、誤りであると言い切る気にはならない。実際にも、私がよく読む民事判例の中で、この種の表現はあまり見ない。ところが、特許庁の審決の取消訴訟などでは、この表現が頻繁に出てくる(例えば、東京高等裁判所 平成11年7月15日 第18民事部 判決(平成9年(行ケ)第215号))。最初に目にしたときには、表現の率直さに驚いた。


比喩的表現


日本法の世界でも比喩的表現は用いられるが、その比喩が法の世界に固有のものであるならば、その意味を理解するのにとまどうことは少ない。しかし、法の世界に固有でない比喩については、その意味を了解するのにとまどうことが時折ある。法は、様々な領域の人の行動を規律するものであるから、規律対象となる領域において用いられる比喩にも慣れておく必要がある。比喩の難易を問わずに気が付いたものを紹介しておこう。

二重否定の表現に慣れよう


法律の世界では、二重否定の表現がよく使われる。法律的に意味のある場合もあれば、単なる修辞的表現の場合もある。

例えば、自賠法3条に見られるように、損害賠償の要件としての過失の存否についての証明責任が加害者に負わされている場合を考えてみよう。この場合には、損害賠償責任の発生に必要な他の要件が充足されているときには、加害者に過失がないことが証明される場合にのみ、加害者は賠償責任を免れる。裁判所は、「過失がない」との判断に確信を持つことができる場合には、賠償請求を棄却する。他方、その判断に達することができない場合には、次のように言う。 この二重否定表現は、法律的に意味がある。この二重否定表現がわかりにくいときには、次のように書き換えると、少しはわかりやすくなるだろう。
類似の例を拾っておこう。
他方、二重否定の表現が修辞的な意味しかもたない場合もある。その場合には、二重否定の表現にとまどうのであれば、若干のニュアンスの差異を無視して、頭の中で肯定表現に置き換える方がよい。
二重否定の表現 肯定表現
若干の疑いがないわけではない。 若干の疑いはある。
全く信頼できないわけではない。 信頼する余地は少しはあるだろう。
わずかな疑いもないと誰もが考えているわけではない。 少しは疑いがあると考えている人もいるだろう。
・・・の能力が必要でない領域はない。 すべての領域において、・・・の能力が必要である。


送仮名


法律の世界の文章における送仮名の付け方は、マスコミの世界のそれとは幾分異なる。法律の世界において標準となるのは、第一は最近の法律であり、第二は最高裁判所の裁判例である。それらの表記法を参考にしながら、早く慣れていただきたい(ただし、私自身も時折間違うことでもあり、また軽微な形式的事項であるので、試験において減点の対象にすることはない)。

  1. 訓読みの熟語が動詞として使われる場合には、中間の送仮名も付す。例:
    • 「差し押さえる」  ただし、生活保護法(昭和25年法律144号)58条は、「・・・権利を差し押えられることがない」としている。送りがなの付し方に変遷がある。
    • 「取り戻す権利」
  2. 訓読みの熟語の名詞は、観念の一体性を強める趣旨で、漢字と漢字の間の送仮名は付けない。末尾のみを送る。例:
    • 「差押え」、「貸付け」、「呼出し」(民訴規則222条)
    • 「呼出状」(規則46条)
    • 「取戻権」
    • 「申立手数料」  「申立て手数料」とはしない(2007年9月18日現在では、この用字例は見あたらない)。例:民事訴訟費用等に関する法律別表第1第18。
    • 「雇主」(老人福祉法36条)、「売主」「買主」(民法557条)、
  3. 訓読みの熟語の名詞で、言葉が熟しているものについては、末尾の送りがなも省略する。
    • 「支払の差止め」(民法511条)  「支払」は送らずに、「差止め」は送る。何がこの違いをもたらすのか。。。
    • 「未払の負担金」(社債等の振替に関する法律64条2項)
    • 「手続」  マスコミの世界では「手続き」である。
    • 「ただし書」  但書きと書きたいところだが、「但し」は副詞で、副詞はひらがな書きにするとの原則がある。ならば、「ただし書き」かと思えば、この語は頻繁に使われる(つまり熟している)ためであろうか、末尾の送仮名は付けずに、「ただし書」とする。
    • 「柱書」  「ただし書」の例にならって、末尾の「き」は送らない。すべての漢字が訓読みであるにもかかわらず送仮名がないというのは、最近では珍しい。「柱書き」の方が分かりやすいが、次の法令では送仮名なしで用いられている:保険業法施行規則(平成8年2月29日大蔵省令第5号)附則 (平成18年4月27日内閣府令第59号)3条8項2号、遊技機の認定及び型式の検定等に関する規則(昭和60年2月12日国家公安委員会規則第4号)の改正規則(平成16年1月30日国家公安委員会規則第1号)附則8項。もっとも、「柱書」という表現が使用されること自体が少なく、法律のレベルでは見あたらない(2007年9月18日法令データベース検索)。上記のように、省令等のレベルで、それも附則で見られる程度である。しかし、条文中のどの文言を指すかを簡潔に指示するために、講学上はよく用いられる。法令において用いられることの少ない表現であれば、講学上は分かり易さを優先させて、講学上の表記としては、「柱書き」も許容範囲としてよいであろう。ただし、講学上用いられる「なお書(き)」「おって書(き)」との統一は必要である。
    • 利付国債  「利付き」としない(金融商品取引業等に関する内閣府令(平成19年8月6日内閣府令第52号)) 。
  4. 複数の漢字から構成される語が一つの観念と認められない場合には、構成要素となる観念を示す漢字と漢字の間に送仮名を入れる。
    • 「申立て前」(破産法55条1項、民訴法358条) 「申立て後」(破産法55条2項) 「申立前」とはしない。つまり、一語ではなく、2つの語の組合せと認識されている。


読み方


日本語では、同一の文字又は文字列について、複数の読み方が可能である。しかし、可能な読み方の全部が許容されるわけではなく、意味に応じて読み方がある程度定まっているが、定まっていない場合もある。日本語の欠陥の1つである。
「後訴」
「前訴」と対に使われて、文字どおり「後で提起された訴え」を意味する。問題は、読み方である。私は、学生時代に恩師が「こうそ」と読んでいるのを聞いて、そのように読んでいるが、最近は「ごそ」と読む学生諸君が多い。「前後」を「ぜんご」と読むこと、「こうそ」では「控訴」との区別がつきにくいことを考慮すると、「ごそ」でも悪くはない。しかし、「後者」は「ごしゃ」ではなく「こうしゃ」と読むのが通常である。「ごそ」は音感がよくない(ゴソゴソ)。講義では、「こうそ」と読むことにしよう。「控訴」と区別する必要がある場合には、「あとのうったえ」と言うことにする。
「者」
音読みの熟語の中では、当然、音読みである(「当事者」とうじしゃ)。問題は、「証拠を提出すべき者」のように単独で使われる場合である。民事法の世界では、「もの」と読むのが普通であろう。ところが、税務署では「しゃ」と読むようである。「義務者」を「義務を負う者」と言い換えた場合に、最後の「者」も「しゃ」と読むこと(全体で「ぎむをおうしゃ」と読むこと)にも一理ある。しかし、私の好みは、「もの」である。
「現場」
「現」を「げん」と音読みするのであるから、「場」も同様に「じょう」と音読みする(全体で「げんじょう」と読む)のが正当なのであろうが、「げんば」と読むことも許容範囲内であろう(いわゆる「重箱」読みである)。
「裁判書」
「決定書」や「判決書」の中の「書」は「しょ」と呼んでも誤解は生じないので、そのように読む(すべて音読みにする)。しかし、「裁判書」を「さいばんしょ」と読むと「裁判所」との区別がつきにくいので、「さいばんがき」と読むことが多い(「買春」を「売春」と区別するために「かいしゅん」と読むのと同じである)。私の趣味は「さいばんしょ」であるが、授業中にそのように読むと、「誤読しているのと違うか」という顔をされることがある。

ちなみに、「書」 を訓読みする場合に「書き」と送仮名を付けることにすると、「さいばんがき」は「裁判書き」になる。このように記されると、「さいばんがき」としか読めなくなる。「裁判書」を「さいばんしょ」と読むか「さいばんがき」と読むかは読む人の自由な判断に委ねるとの立場に立つと、その自由を確保するために、訓読みの「書」に送仮名を付けない方がよいことになる。
「故ら」
「故ら茲に蛇足を加へるよりは」(エリッヒ・ブライ/小野木常・訳『訴権と法的利益』(山口書店、昭和18年2頁))の文脈で、「故ら」はどのように訓読みすべきか。意味からすれば、「ことさら」しかないであろう。「ことさら」を漢字で書く場合には、通常は「殊更」を用いるが、これはむしろ当て字のようである。白川静『新訂字訓』(平板社、2006年)293頁は、「ことさらに」の見出しの下に「故」を挙げる。白川静『字通』(平板社、1997年)468頁は、「故」の訓読みとして、「ことさら、もと、ゆえ」を挙げる。


自分の表現の好みを他人に押しつけてはならない


適用と適応
法律の世界では、「事実に法を適用する」という表現を多用する。そのために、「コンピュータにウイルス駆除プラグラムを適用する」という表現が法律家にはなじみやすい。しかし、工学や医学の世界では、「適用」より「適応」の語が好まれるようである。「コンピュータにウイルス駆除プラグラムを適応する」、「患者に心臓カテーテル検査を適応する」。法律家は、「適応という語は『環境に適応する』という場合に使う語であるから、『カテーテル検査を適応する』というのは不適切であり、『カテーテル検査を適用する』というのが正しい」と、つい言いたくなるであろう。しかし、それを言ってはならないのである。他の分野の用語法に寛容でなければならない。法律学の用語法が標準的用語法であると思いこんではいけないと自戒しておこう。
法令の規定に規定する
文章表現の趣味から、こうした表現は避けたいところである(代替表現:「法令に規定する」「法令の規定で定める」等)。しかし、民訴法132条の10第1項ではこの表現がなされており、また、私も使うことがある(「**の規定の準用が規定されている」)。それでも、学生がこのような表現をしてきたときに、その時の気分で、それを手直ししようとすることがある。手直しすると、「法律で用いられている表現を認めなかった」と非難されるだろう。
権利法律関係
法律の世界では大量の言葉を使用するので、節約のために用語の短縮化が頻繁に行われる(もっとも、最近の若者の用いる短縮表現もすざまじい:「あけおめ」(明けまして、おめでとう)「きもい」(気持ち悪い))。前述の攻撃防御方法も短縮表現の一つであるが、これはすでに慣熟しており、比較的素直に受け入れることができる(民訴法157条の見出しなどで使用されている)。では、「権利法律関係」という短縮表現はどうであろうか。率直に言って、私の趣味には合わない。これは、権利関係と法律関係という類似のものの組合せの短縮表現であり、短く言いたいのであれば、「法律関係」とだけ言えば十分だからである(法律関係の中には権利関係も含まれる)。しかも、権利法律関係では、建物を巡る法律関係の意味での建物法律関係と同様に、権利を巡る法律関係を示しているかのような印象を与える。そして、それが訴訟物論の文脈で使われると、なんともナンセンスな表現のように見えてしまう(訴訟物論の文脈で法律関係をそのように限定する必要はない)。だから、この表現を学生のレポートの中で最初に見た時には、とまどってしまったのである。しかし、すでに普及している教科書の中で「権利・法律関係」という表現があるから、「権利法律関係」も受け容れなければならないのかもしれない。自分の趣味にあわない表現方法を学生がしてきたときにどのように対応するかは、いつも迷うところであるが、寛容を原則とするのがよいようである。
権利利益
「法的利益」の方が解り易い。少なくとも1970年以前にはあまり見かけなかった記憶しているが、最近は多くの法令で「権利利益」の語が使われるようになってきている。2011年1月29日に法令データベースで検索すると、この語を用いている法令は、77件ある。民事手続に関係のあるところでは、例えば、裁判の迅速化に関する法律1条が、「この法律は、司法を通じて権利利益が適切に実現されること・・・」と規定している。2011年1月29日の時点においてこの語を用いている最も古い法律は、平成元年制定の土地基本法である。17条2項が「国及び地方公共団体は、土地に関する施策の円滑な実施に資するため、個人の権利利益の保護に配慮しつつ、国民に対し、土地の所有及び利用の状況、地価の動向等の土地に関する情報を提供するように努めるものとする」と定めている。法令の改廃が激しいので、それ以前からも使われていた可能性もあるが、それでも比較的新しい法令用語であろう。
「請求が理由がある」
普通は、このような言い方はせずに、「請求に理由がある」と言う。そう思っていたら、出入国管理及び難民認定法49条3項に、「異議の申出が理由があるかどうかを裁決して」という文言があった。このように「が」2つ続くと、どれが主語かわかりにくくなる。しかし、このような表現もあるのだ。ちなみに、私の好みは、「申出に理由がある」、「申出が理由のあるものである」又は「申出が正当である」のあたりである。

参考文献



目次
2005年3月5日−2015年5月10日